はい、今回は大阪市岸和田市にある「碁石山古墳(ごいしやまこふん)」を紹介します。この碁石山古墳ですが、かつて白河天皇がこの古墳に上り、碁を打ったとの言い伝えが残されています。
一体なにがあったら、天皇が古墳で碁を打つことになるのか。その真相を探るべく、大阪府岸和田市にある「碁石山古墳」へ行ってきました。
碁石山古墳とは
碁石山古墳のある、大阪府岸和田市に来ています。岸和田市は和泉地区では古墳が多いエリアで、多数の古墳が残されています。特に貝吹山古墳を盟主墳とした、久米田古墳群が知られています。久米田古墳群は、貝吹山古墳を盟主墳とした10基ほどの古墳から構成。貝吹山古墳は全長130mの前方後円墳で、岸和田市においては摩湯山古墳に次ぐ2番目の規模を誇ります。

久米田古墳群は、時代が下るとともに規模が縮小していることから、古墳群を築いた一族は徐々に勢力が衰退していったと考えられています。今回紹介する碁石山古墳は、久米田古墳群から約400mほど離れた場所に存在しているため、久米田古墳群には含まれていないようです。
そんな訳で、碁石山古墳へ向かいます。9月の半ばというのに異常な暑さで、久米田古墳群を巡るだけで倒れそうに。最後の気力を振り絞り碁石山古墳へ向かいますが、古墳巡りも命がけ。
碁石山古墳は、久米田古墳群から徒歩15分ほどの場所にある「浄行寺」の境内に保存されています。浄行寺の境内にあることから、別名「浄行寺古墳」とも。歩いていると浄行寺の裏手にある駐車場があり、こんもりとした小山が碁石山古墳。

擁壁魔改造古墳ですね
古墳の裏手はお寺の駐車場になっており、墳丘の周囲はガチガチに擁壁に囲まれていました。市街地にある古墳ならよくある光景です。墳丘には色々とオブジェがあるのですが、特に気になったのがこの超巨大灯篭。デカいにしても程があるのですが、なかなかのインパクト。思いっきり墳丘の斜面にあるのですが、地震が起きたらバラバラにならないのでしょうか。

碁石山古墳は、6世紀代に築造された推定50m前後の前方後円墳と考えられています。ただ周囲は大きく改変されており、前方部がどのあたりにあったのかはよく分かっていません。墳丘表面に拳大の石がみられることから、葺石が敷かれていたと考えられています。ただ、埴輪についての痕跡は見つかっていません。

墳丘には他にも大小の石が散在しており、埋葬施設の石材とも考えられています。しかし竪穴式石室か横穴式石室かを判断するには至らないとのこと。埋葬施設はすでに破壊されており、詳しいことは分かっていません。遺物として浄行寺には、古墳から出土したと伝わる勾玉、管玉が各一点が保管されています。この遺物の種類から、碁石山古墳の築造時期は6世紀代でも古いものではないかと考えられています。
そんな訳で、お寺の山門へ行ってみると扉が開いていたので、本堂にてお参りさせてもらうことに。最近建て直されたのか、本堂がピカピカに輝いていました

寺伝によると、浄行寺は1516年にこの地の領主である、荻野影成により建立されたと伝わっています。元々は久米田寺の西の坊でしたが、現在は西本願寺に属するとのこと。そういうこともあり、境内には親鸞像が置かれていました。

碁石山古墳はお寺の庭園にある築山ということで、こちらが正面になるようです。碁石山古墳の由来は、1090年に白河上皇が紀伊の国へ行幸の際、見晴らしのいい古墳の上に上り碁を囲んだことが由来。浄行寺の山号である「碁石山」は、ここから来ています。

そんな訳で、庭園の一部ということで古墳には上れそうなのですが、境内に誰もおらず勝手に上るわけにもいきません。白河上皇が気に入った景色を見てみたいと思ったのですが、上ってみても住宅しか見えないと思うので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府岸和田市にある「碁石山古墳」を紹介しました。白河上皇が古墳に上って碁を打ったと伝わる古墳でしたが、いい感じに擁壁魔改造されていました。庭園の築山となったことで、住宅地にありながらも残ることが出来たのでしょう。残ることが出来たのならば、少々の擁壁魔改造もやむを得ないかもしれません。
そんな訳で、碁石山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、上皇が古墳に上って碁を打ったかもしれない古墳を紹介します。
碁石山古墳詳細
| 古墳名 | 碁石山古墳 |
| 別名 | 浄行寺古墳 |
| 住所 | 大阪府岸和田市額原町166 |
| 墳形 | 前方後円墳 |
| 全長 | 推定50m前後 |
| 高さ | 不明 |
| 築造時期 | 6世紀代 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | 無し |
| 出土物 | 勾玉、管玉 |
| 参考資料 | ・案内板 ・岸和田市史 ・楽しい古墳巡り |
案内板
境内地の本堂東側の小高い山は前方後円墳であり、久米田古墳群に連なる推定450年頃のものである

