はい、今回は大阪府和泉市にある「目塚古墳(さかんづかこふん)」を紹介します。目塚と書いて「さかんづか」と読む難読古墳ですが、かつて目にご利益がある古墳として社が建てられていたと記されています。
何かのご利益のある古墳というのも珍しいのですが、そんな目にご利益がある古墳があると聞いたからには、見に行かずに入られません。ということで、大阪府和泉市にある「目塚古墳」へ行ってきました。
目塚古墳とは
和泉市の古墳では、全長94mの誇る「和泉黄金塚古墳」が有名ですが、市全体としては小型の古墳が中心となっています。その中でも100基ほどで構成された「信太千塚古墳群」が大規模群集墳として知られています。

信太千塚古墳群は信太丘陵に築造された古墳群で、信太狐塚古墳を除くと大半が小型の円墳で構成されています。和泉エリアは大型の石材が少ないことから、石室の規模も小型のものが多いのが特徴。
また石室も横穴式石室、竪穴式小室、木管直葬など埋葬方法も多様な方法が用いられています。目塚古墳も信太丘陵の南東に位置し、かつては周辺にも複数の古墳が存在したようです。
ということで、和泉市北西東部の古墳を巡りながら目塚古墳へ。昔ながらの住宅地の細い路地を歩いていくと、東坂本公民館が見えてきます。

目塚古墳は、この公民館の横にある公園に存在します。事前情報ではこの辺りかなという見当をつけていましたがすぐにわかりませんでした。周辺をウロウロと探していると、公民館横に公園へつながる通路がありました。

その通路の先の公園に目塚古墳が存在します。

完全に地面ですね
地面とは聞いていましたが、思った以上に地面でした。何の変哲もない地面ですが、この下に目塚古墳が埋葬保存されています。
目塚古墳は、6世紀末に造られた直径約17mの円墳。18世紀中頃、坂本新田(現東阪本町) の開発中に偶然発見されました。埋葬施設は全長5.5mの横穴式石室を持ちますが、墳丘や石室の天井石は既に失われていたようです。


出土品としては、鉄刀・鉄鏃・金銅製耳飾り・馬具・土器や、木棺に使用した鉄釘などが見つかっています。また最後に追葬されたとみられる人骨なども出土しているとのこと。被葬者については不明ですが、この地域の豪族、坂本氏との関係が考えられます。


また後世に、信仰の対象となっていたことから、中世の茶碗や硯なども出土しています。

この公民館には、古墳の天井石を用いた石碑が保存されています。これは周辺の開発を請け負った伏屋氏が、安永6(1777)年に事の経緯と由来を記したものです。


現物は風化して読みづらいのですが、拓本が和泉市いずみの国歴史館に保存されています。

かつては目と名前がつくことから、目にご利益があるということで社が建てられて信仰を集めていたと伝わっています。江戸時代に出版された「河内名所図会」においても、名所として紹介されていたようです。
ちなみに地面しか見えない目塚古墳ですが、和泉市の指定文化財に登録されています。市の指定文化財に登録されている古墳は少ないのですが、なぜこの地面古墳がその中に含まれているかは謎です。

というわけで、はたから見ると地面ばかり激写している不審者にしか見えませんが、幸いなことに誰も来ることはありませんでした。心ゆくまで地面を撮影することもできたので、とらあえず誰か来る前に帰ることにしました。
まとめ

今回は大阪府和泉市にある「目塚古墳」を紹介しました。「さかんづか」と読む珍しい名前の古墳ですが、行ってみると指定文化財という名の地面。地面古墳好きの方には垂涎の古墳ではないでしょうか。地面好きの古墳ファンに会ったことがないのでわかりませんが。
そんなわけで、目塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の指定文化財に登録された地面古墳を紹介します。
目塚古墳詳細
| 古墳名 | 目塚古墳 |
| 別名 | 無し |
| 住所 | 大阪府和泉市東阪本町 |
| 墳形 | 円墳 |
| 規模 | 直径17m |
| 高さ | 不明 |
| 築造時期 | 6世紀末 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 横穴式石室 |
| 石室全長 | 5.5m |
| 指定文化財 | 和泉市の史跡:2016年5月13日 |
| 出土物 | 鉄刀、鉄鏃、金銅製耳飾り、馬具・土器、鉄釘、硯 |
| 参考資料 | ・案内板 ・和泉市いずみの国歴史館解説 |
案内板
目塚古墳(さかんづか)
目塚古墳は、六世紀末に造られた直径約17mの円墳です。平成五年、全長五五mの横穴式石室が発掘調査されました。墳丘や石の天井石は失れていましたが、鉄刀・鉄鏃・金銅製耳飾り・馬具・土器や、木棺に使用した鉄釘などが出土しました。誰の墓かわかりませんが、この地域の豪族、坂本氏との関係が考えられます。この古墳は、十八世紀中頃、坂本新田(現東阪本町)開発中に、字目塚で偶然発見されました。開発を請け負った伏屋氏は安永6(1777)年、掘り出した古墳の石で石碑を建て、由来を記「目塚」という名前しました。それが現存する「目塚之碑」です。から眼病にご利益があると信仰され、古墳の周囲に社が建てられていた様子が調査でわかりました。江戸時代の「目塚」のことは、寛8(1796)年に出版された『和泉名所図会』にも紹介されています。現在、目塚古墳の石室は公園の下に保存されています。
平成二十七年七月三十一日
和泉市教育委員会
