はい、今回は大阪府高槻市にある「阿武山古墳(あぶやまこふん)」を紹介します。この阿武山古墳ですが、飛鳥時代に活躍した「藤原鎌足」の墓であるとの説があります。
藤原氏の祖となる藤原鎌足は、中大兄皇子と共に蘇我氏の排除や、大化改新などに大きく関わった人物。そんな大人物の墓かもしれない古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府高槻市にある「阿武山古墳」へ行ってきました。
藤原鎌足とは
藤原鎌足は、元々「中臣氏」出身の一族。藤原の姓は、臨終の際に賜ったものなので、生存中は「中臣」を称しています。中臣氏は古代の名族で、主に神事や祭祀を司っていました。大和王権においては物部氏に次ぐ名族ということで、大きな力を有していたようです。

鎌足は、当時、天皇に匹敵する力を持つ蘇我蝦夷、入鹿親子の専横に対して危機感を抱いていました。のちに鎌足は軽皇子(孝徳天皇)や中大兄皇子(天智天皇)と関係を深め、乙巳の変にて蘇我入鹿を殺害。父の蝦夷も自宅にて自害に追い込み、蘇我氏の力を削ぐことに成功します。

その後は天智天皇と共に、国内の政治基盤の確立に尽力。後に朝鮮半島において、友好国の百済が新羅により滅ぼされると、百済再興のために兵を派遣。しかし、唐・新羅連合軍に白村江の戦いで敗北し、百済再興に失敗するなど、軍事面では失敗もありました。この戦いの影響もあり、官僚機構や法整備を進め、中央集権体制の基礎を固めていきます。

鎌足の死因については諸説ありますが、669年頃には病を患っていたようです。その年の11月に病状が悪化し、56歳で逝去。臨終の際に最高位である「大織」と「藤原」の姓を賜っています。鎌足は藤原氏の祖となり、以後の藤原氏は朝廷において、確固たる地位を築いていきます。
阿武山古墳とは
阿武山古墳のある、大阪府高槻市に来ています。高槻市は、北摂において古墳が多いエリアの一つ。かつては茨木市と高槻市北部には、約500基もの古墳が築造された「三島古墳群」が存在しました。また、真の継体天皇陵ともいわれる「今城塚古墳」が築かれるなど、古墳時代から栄えた地域でした。

阿武山古墳は、高槻市西部に位置する阿武山に存在。標高約210メートルの尾根上に位置し、三島古墳群から離れた独立墳となっています。そんな訳で、阪急高槻駅で自転車をレンタルして、阿武山古墳へ。もちろんアラフィフなので電動機付きを借りたのはいうまでもありません。
阿武山古墳は、文字通り阿武山の山頂に存在します。周辺の古墳を巡りながら、山麓の「大阪医科薬科大学」まで到着。ここから、京大地震観測所までのラストスパートを激走します。

阿武山古墳は、京大地震観測所の敷地内に保存されていますが、見学は自由。ただし、ここから先は徒歩のみとのことで、駐輪場に停めて阿武山古墳へ。ちなみに車を停める場所はないので、バスまたは自転車で来ることをお勧めします。

舗装された道を歩いていると、脇に阿武山古墳への看板があり、山道へ。夏場に自転車で激走したあげく登山というハードコースですが、藤原鎌足が待っているからには登るしかありません。向こうは「来るな」と思ってるかもしれませんが。

そんな訳で、15分ほど山道を歩き山頂に到着。そのまま尾根づたいに南に歩いて行くと、阿武山古墳の石碑が建てられていました。

石碑から少し上ると、周囲が舗装された道になり、その奥に阿武山古墳が存在します。

まあまあの地面ですね
古墳ということですが、墳丘はありません。囲んでいる柵がなければ、古墳と分かる人はいないでしょう。その為、盗掘を受けることなく、京大地震観測所を建設する際に、初めて発見されました。

阿武山古墳は、7世紀代に築造された古墳。尾根の先端部に溝を作り、径約82mの範囲を墓域として区切っていたとのこと。

墓域の中央部から3mほど下に、花崗岩製の切石と素焼きのレンガにより構築された横口式石槨が存在。この時代の高位の人物に用いられる埋葬施設は、切石を用いた精巧な石室や1石をくり抜いたものなどが用いられる傾向にあります。しかし、この横口式石槨は、自然石により構築された質素な埋葬施設でした。

阿武山古墳の被葬者についてですが、「藤原鎌足」との説があります。
藤原鎌足の墓とされる理由
阿武山古墳の被葬者は、立地、棺、副葬品、遺体の状況から「藤原鎌足」の墓である可能性が高いと考えられています。
立地
阿武山古墳から南東部にかけては「三島郡」と呼ばれていました。藤原鎌足は、この三島郡に「三島別業」という別荘を有していたと伝わっています。この三島郡は、藤原氏にとっても大切な地であったようで、藤原鎌足の死後も、藤原北家が代々管理していました。
棺

石室内には、夾紵棺と呼ばれる、布を何枚も漆で貼りあわせて作った棺が納められていました。この夾紵棺は、高位の人物に用いられる棺として知られています。夾紵棺の出土例としては、聖徳太子の墓とされる「叡福寺北古墳」や、斉明天皇の真陵とされる「牽牛子塚古墳」などで確認されています。皇族クラスに用いられる棺であることから、被葬者が皇族または皇族に匹敵する有力者の墓であるようです。
副葬品
棺内からは多数の副葬品が出土していますが、その中で最も注目されているのが「金糸で刺繍した冠帽」です。この冠は、大化改新で定められた「七色十三階冠」における最高位「大織」に授けられる冠と考えられています。記録上、大織の位が授けられた人物は藤原鎌足のみ。ただ、出土した冠が本当に「大織冠」なのかについては、疑問も遺されています。他にも、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕なども出土しており、被葬者が高位の人物であったことは間違いないようです。
遺体状況

盗掘を受けていないということもあり、棺内は良好な状態で残されていました。60歳前後の男性人骨がほぼ完全な状態で発見されています。X線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことが判明。この点より、被葬者の死因は、骨折に伴う合併症と考えられています。一説によると、鎌足は狩猟の際に落馬して骨折したとの説があります。ただ、落馬による骨折については、一時資料にはないため、真偽は不明です。
ただ藤原鎌足の墓と伝わる地は、奈良の談山神社など候補地がいくつか存在します。実際に藤原鎌足の墓である確証はまだありませんが、被葬者は皇族または皇族に匹敵するほどの有力者であったことは間違いないようです。
という訳で、阿武山古墳の周りを歩いてみることに。と言っても、柵に囲まれた謎の地面がある以外なにもありません。そんな訳で、4方向から地面を激写したら他に何もすることが無くなったので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府高槻市にある「阿武山古墳」を紹介しました。藤原鎌足の墓かもしれないという古墳ですが、行ってみると地面がありました。発見時は大騒動になり落ち着いて発掘調査も行われなかったようです。そろそろ時間も経ってきたことなので、最新の技術を用いて調べてほしいところです。
という訳で、阿武山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、藤原鎌足の墓かもしれない地面を紹介します。
阿武山古墳詳細
| 古墳名 | 阿武山古墳 |
| 別名 | なし |
| 住所 | 大阪府高槻市奈佐原 |
| 墳形 | 不明 |
| 全長 | 不明 |
| 高さ | 不明 |
| 築造時期 | 7世紀代 |
| 被葬者 | 推定:藤原鎌足 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | 国の史跡:1983年8月30日 |
| 出土物 | |
| 参考資料 | 案内版 |
案内板
阿武山古墳は、平野をみおろす標高210m余の山頂にあり、遠く笠置から生駒、六甲の山々をのぞむことができる。この古墳は盛土をもたず、尾根の先端部に溝をめぐらせて径約82mの範囲を墓域として区切っている。
墓室は花崗岩の切石と塼(レンガ)でつくられており、墓域の中央、地下約3mにある。床の中央には棺台がしつらえられ、墓室の内側は漆喰が厚く塗られていた。
棺には布を何枚も漆で貼りあわせた夾紵棺がもちいられ、なかに60歳前後の男性人骨がほぼ完全にのこっていた。錦の衣服をまとい、ガラス玉製の枕をして、胸から頭にかけ金糸が散らばっていたことが知られている。
墓室は昭和9年に偶然発見され、「貴人の墓」として反響を呼んだが、出土品は調査後まもなく埋めもどされた。
被葬者については、発見直後から飛鳥時代の大豪族である藤原鎌足をあてる説がある。おもに鎌足と三島の関係を語る伝承にもとづくものであった。昭和62年には、人骨のX線写真の検討から生前の体格や死亡時の状況があきらかになった。また絹製の冠や玉枕も復原され、それが7世紀後半の最高位者に贈られた冠にあたるとして、669年に没した大織冠藤原鎌足の墓とする説が再び脚光を浴びている。しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は7世紀前半とかんがえられることなど、被葬者の特定はなお今後の研究に委ねられている。
阿武山古墳は、数少ない飛鳥時代の墓制を示す貴重な古墳として国の史跡指定を受け、永久保存がはかられている。
平成元年3月15日
文化庁
大阪府教育委員会
茨木市高槻市教育委員会
