はい、今回は奈良県広陵町にある「新山古墳(しんやまこふん)」を紹介します。この新山古墳ですが、武烈天皇の墓である可能性があるとして、宮内庁が陵墓参考地として管理しています。
新山古墳が武烈天皇の墓かもしれないと聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県広陵町にある「新山古墳(大塚陵墓参考地)」へ行ってきました。
新山古墳(大塚陵墓参考地)とは
新山古墳のある、奈良県広陵町に来ています。広陵町は、県内でもトップクラスに古墳が多い地域として知られています。町内を南北に馬見丘陵が横断し、大和三大古墳群の一つ「馬見古墳群」が存在。馬見古墳群は、「北群」「中央群」「南群」に分けられ、新山古墳は「南群」に属します。
そんな訳で、南群を巡りながら新山古墳へ。新山古墳は、南群の北側に位置。馬見丘陵の南東端に築かれた古墳で、西と南を住宅地、北と東を池に接しています。

新山古墳は、4世紀中頃に築造された、前方部を南西に向けた前方後方墳。全長126mを測り、前方後方墳としては全国4位の規模を誇ります。

同時期に築造された周辺の古墳としては、エガミ田古墳群とモエサシ古墳群が存在。ただ、どちらも小型の円墳や前方後円墳で、新山古墳が群を抜いた規模を有しています。

築造時には葺石が敷かれ、埴輪が並べられていたことが分かっています。かつては周濠を有していたようですが、大半が埋め立てられています。北と東に接するため池は、濠の名残とのこと。
新山古墳は、1885年に土地の所有者が後方部を掘削し、埋葬施設や副葬品が見つかっています。記録によると、表土から1.2m下に石室の天井石が見つかり、その下には石室が存在しました。この石室内には、栗の実ほどの小石が敷き詰められていたとのこと。

新山古墳の石室が他の竪穴式石室と大きく異なるのは、石室の下に石棺が置かれている可能性がある点。土地の所有者が掘削した際、石室の下に、石棺材らしき石を見つけたとのこと。つまり新山古墳の埋葬施設は、上に石室、下に石棺という二重構造の可能性があるようです。一説には上の石室は、副葬品を置く場所だったともいわれています。

埋葬施設は他にも、墳丘の外側に埴輪棺7基、土壙墓1基が見つかっており、新山古墳の被葬者に近い人物の墓と考えられています。
副葬品は多数見つかっており、その中では銅鏡と帯金具が注目されています。銅鏡については、石室より34枚もの数が出土し、この数は全国でもトップクラス。銅鏡の数は、権力の象徴でもあり、被葬者はかなりの権力者だったと思われます。

帯金具は、ベルトの装飾品として知られています。他の古墳からも帯金具は出土していますが、新山古墳のものは、珍しくほぼ完全な姿で出土したとのこと。中国の東晋または西晋で作られたデザインと類似性があるようです。もしこの金具が中国から来たものだとすると、新山古墳の築造時期は310年に近い時期に築かれたとの説もあります。

被葬者については不明ですが、現在は宮内庁により、武烈天皇の墓である可能性があるとのことで、陵墓参考地として管理されています。
武烈天皇の墓なのか?
現在、宮内庁では奈良県香芝市今泉にある山丘を「武烈天皇陵」に比定しています。しかし、考古学的にこの山丘が古墳である可能性は低いと考えられています。そのため武烈天皇陵について宮内庁は、新山古墳を武烈天皇の陵墓参考地としています。

平安時代に編纂された「諸陵式」によると、武烈天皇の墓は「傍丘磐坏丘北陵」に葬ったと記されています。また「北陵」と対なる「傍丘磐坏丘南陵」が顕宗天皇陵とも記されています。一般的にこの時代の大王墓は、100m規模の前方後円墳であることが多く、片岡の地において、南北に100m規模の古墳が築造された古墳が、武烈天皇陵と顕宗天皇陵になります。ただ片岡の範囲はあいまいで、推定されるエリアにおいて、5世紀後半に南北に築造されたという条件に当てはまる古墳が存在しません。

宮内庁が現在管理している武烈、顕宗天皇陵は、位置、規模、墳形的に相応しくありません。その為、新山古墳を北陵、築山古墳を南陵として、両天皇の陵墓参考地としています。しかし新山古墳は、片岡の地に含まれるかは微妙であり、築造時期が武烈天皇の時代よりも100年近く前に築造されています。また規模こそは100mを超えていますが、新山古墳は前方後方墳であり、大王の墓としては相応しくありません。そんな訳で、新山古墳も武烈天皇陵である可能性は低いと思われます。
ただ、新山古墳は馬見古墳群では、かなり大きな規模を有しています。豊富な副葬品や周辺にも多くの埋葬施設があることから、大王またはそれに匹敵する有力者の墓と思われます。
新山古墳周辺を歩く
新山古墳は、宮内庁が管理しているため、古墳の中に入ることができません。とりあえず唯一近づくことができる北側へ行ってみることに。墳丘裾が小さな緑地になっており、ここに案内板などが設置されています。

緑地ということで特に何もなく、ただ草地が広がっています。たまに溜まり場になるのか、宮内庁様より「ゴミを捨てるな」とのお達しも。


この緑地からが、一番新山古墳を近くで見ることができます。ただ柵越しに茂みが見えるだけなので、前方後方墳感は全くわかりません。とにかく茂みです。

柵には、地元の有志が設置した新山古墳について記載された新聞記事も貼られていました。地味にこういう情報がありがたかったりします。
緑地の西端に、宮内庁が建てた「大塚陵墓参考地」の立て札が確認。隣には石碑が建てられており、何が刻まれているのか確かめようとすると、巨大なスズメバチが飛んできたので、スーパーダッシュで逃亡。(以前、刺されたことあり)


そんな訳で、命を賭けてまで謎の石碑を確かめに行く勇気もなかったので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、奈良県広陵町にある「新山古墳(大塚陵墓参考地)」を紹介しました。武烈天皇の陵墓参考地とされていますが、実際には武烈天皇の墓では無いようです。しかしながら、100mを超える巨大前方後方墳ということで、かなりの有力者の墓ではないでしょうか。
そんな訳で、新山古墳(大塚陵墓参考地)の紹介はこの辺で。次回はまた別の、武烈天皇の墓かもしれない古墳を紹介します。
新山古墳(大塚陵墓参考地)詳細
| 古墳名 | 新山古墳 |
| 宮内庁名 | 大塚陵墓参考地 |
| 住所 | 奈良県北葛城郡広陵町みささぎ台13−7 |
| 墳形 | 前方後方墳 |
| 全長 | 126m |
| 高さ | 6m |
| 築造時期 | 4世紀中頃 |
| 被葬者 | 武烈天皇の陵墓参考地 |
| 埋葬施設 | 竪穴式石室 |
| 出土物 | 銅教34面、管玉、石釧、車輪石、石製鏃、台形石製品、帯金具、刀剣 |
| 指定文化財 | 無し |
| 参考資料 | ・案内板 ・大和葛城の大古墳 ・大和の古墳を歩く ・天皇陵古墳を歩く |
案内板
新山古墳
馬見丘陵の南端東麓の自然丘陵を利用して築造された前方後方墳で、周囲に濠をめぐらしていたらしく、現在溜池に拡張利用され、わずかに東と北に当初の面影が残っている。古墳の規模は全長約126メートル、前方部幅約66メ ートル、後方部頂上までの高さが約10メートルと推定される。明治18年、竪穴式石室と組合式石棺状の施設が発見され、三角縁神獣鏡、小形内行花文鏡や、車輪石、石釧、中国晋代の帯金具、直弧文鏡、玉類等が出土した。

