はい、今回は大阪府寝屋川市にある「石宝殿古墳(いしのほうでんこふん)」を紹介します。ところで「終末期古墳」という言葉をご存じでしょうか?終末期古墳とは、古墳時代末期から飛鳥時代にかけて築造された古墳を指します。
関西における終末期古墳は、奈良の飛鳥や大阪南東部の南河内に多く築造されています。しかし大阪北東部には少なく、石宝殿古墳は北河内における数少ない終末期古墳の一つです。
北河内における数少ない終末期古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、石宝殿古墳のある大阪府寝屋川市へ行ってきました。
終末期古墳とは
終末期古墳の定義は難しいのですが、概ね「前方後円墳の築造が終わった後」とされています。その時期は地域により差はありますが、6世紀末から7世紀初頭には、全国的に前方後円墳の築造が終了したようです。
前方後円墳の終了後は、古墳の小型化が進行。天皇や大豪族は、方墳、八角墳が用いられ、それ以外の有力者は小型の円憤を中心とした群集墳を築くこととなります。
珍しいタイプの横口式石槨
今回は、寝屋川公園周辺の古墳を巡りながら、石宝殿古墳に向かいます。石宝殿古墳の近くには駐車場がないため、寝屋川公園の駐車場に車を停めて石宝殿古墳へ。
ちなみに寝屋川公園内にも、時期的には終末期古墳の「寝屋古墳」が存在します。寝屋古墳は巨石を用いた大型の古墳であり、かなりの有力者の墓と考えられています。
石宝殿古墳は生駒山地の中腹に位置するため、まあまあの坂道を歩く必要があります。この道で合ってるのかと思いながらふと地面に目をやると、プレートに石宝殿古墳への案内が書かれていました。いや、これは普通気がつかない…
しばらく歩くと「明光寺」があり、山門の横に石碑が置かれています。この石碑は「雷神石」と呼ばれるもので、江戸時代に編纂された「河内名所図会」で奇石として紹介されています。
実はこの石碑、古墳の石棺を再利用したもの。兵庫県高砂市から産出する凝灰岩は「竜田石」と呼ばれ、身分の高い人物の石棺に用いられました。明光寺のある打上一帯には、打上古墳群が存在しました。 この石棺は、古墳群に納められていたものと考えられています。
明光寺からさらに上っていくと、山の中腹に到着。ここは展望台にもなっており、寝屋川市を一望できます。道の脇には、寝屋川市ではよく見かける「鉢かずき姫」の案内板も置かれていました。
ここから先は二又の道に分かれており、左が打出神社へ、右が山道になっています。
石宝殿古墳が山の中にあるという先入観から、右の道をズンズン進んでしまいましたがこちらは不正解で、正解は打出神社への道でした。いや、この場所にこそ案内板置いて下さい…
気を取り直して、打出神社方面に向かいます。打出神社は、もともと高良神社と称していました。しかし明治に打出神社へと改称。そのため鳥居の扁額には、現在も「高良神社」となっています。
祭神の「武内宿禰」は、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代に仕えたと伝わる人物。武内宿禰は、有力豪族である葛城氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏の祖としても知られています。ただ5代もの天皇に仕えたとなると、年齢的に300歳ぐらいになるため、実在性については疑問を持たれています。
大阪では武内宿禰を祀る神社は少なく、珍しい祭神の神社といえるでしょう。石宝殿古墳と近い場所にありますが、関係性は不明。
打出神社にて参拝したあと、参道の脇にある山道から石宝殿古墳へ。山道の入口には、古墳の概要が記された案内板が設置されています。
石宝殿古墳へは山道ですが、50mほどで古墳に到着します。
こちらが石宝殿古墳。封土はすでに失われており石室だけが存在。埋葬施設は横口式石槨で、形状から7世紀中頃に築造されたと考えられています。
江戸時代にはすでにこの状態だったようで、石室内からは何も見つかっていません。古くから「石宝殿」と呼ばれており、古墳としてではなく、古代の宝の保存庫と思われていたようです。
玄室に続く羨道部には、巨大な側壁が残されています。本来は側壁の上に天井石が置かれていましたが、現在は消失。古墳の石材は平たく加工されているため、後世の人々が橋や石碑に利用されるケースもあります。石宝殿古墳の天井石も、誰かが持ち去り再利用したのかもしれません。
この横口式石槨は、巨大な花崗岩をくりぬいた蓋石と底石により構成された珍しいタイプ。類似の横口式石槨は、奈良県明日香村の「鬼の俎・雪隠」や奈良県斑鳩町の「竜田御坊山3号墳」など、あまり例がありません。その理由として、巨石を横口式石槨に加工するためには、高い技術と労力が必要だからではないかと思われます。
(橿原考古学研究所附属博物館保存)
奈良県橿原市にある巨石「益田岩船」も横口式石槨の製作中に失敗し放置されたものとの説もあり、巨石加工の難しさがうかがえます。
玄室入口の左に窪んだ部分があり、ここには軸のようなものが取りつけられていたようです。入口は扉があり、開閉できるようになっていたとのこと。
玄室内部は、本当に何もありません。時代や石槨の規模から、木棺や夾紵棺が納められていそうですが、今のところ不明です。
横口式石槨の背後には、東西一列に並んだ石列が残されています。石列の西の一つが列より135度傾いており、築造時は八角墳だった可能性があります。
写真の石列がそうかなと思ったのですが、寝屋川市のHPをみると「巨石が3つ並んでおり、石列から135度から向いた場所にもう一つ石が見つかった」と記載されていました。現地で見た限り、石槨の背後にあった石列は巨石でもなく3つ以上あるので、石列は違う場所にあるのかもしれません。
八角墳は、終末期の皇族クラスに用いられてきました。西日本における八角墳では、天武・持統合葬陵の「野口王墓古墳」や、文武天皇陵の真陵とされる「中尾山古墳」で確認されています。仮に八角墳である場合、墳形や特殊な横口式石槨であることから、皇族クラスもしくは、かなりの有力者が埋葬されていたと考えられます。
日本書紀、古事記、延喜式などには該当する人物が見当たらず、被葬者が誰かについては大変に気になるところです。
まとめ
今回は、大阪府寝屋川市にある「石宝殿古墳」を紹介しました。特殊な横口式石槨を持ち八角墳の可能性もあることで、皇族・高位の有力者の墓だったと思われます。ただ、過去の記録で石宝殿古墳に該当する被葬者は見当たりません。
このような横口式石槨を近くで見れるというのはなかなか無いので、史跡好きな人にはオススメの古墳といえるでしょう。
という訳で、石宝殿古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、珍しい横口式石槨を持つ八角墳かもしれない古墳を紹介します。
石宝殿古墳詳細
古墳名 | 石宝殿古墳 |
住所 | 大阪府寝屋川市打上元町38 |
墳形 | 墳形不明(八角墳?) |
直径 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 7世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横口式石槨 |
国の史跡 | 1973年5月10日 |
出土物 | 須恵器の小片 |
参考資料 | ・案内板 ・寝屋川市史 |
案内板
ここより東方五〇メートルのところにある後期古墳です。花崗岩の底石は長さ約三メートル幅一.五メートルあり、蓋石を受けるための加工がほどこされています。
蓋石は長さ約三メートル三.三メートル高さ一.五メートルもの巨大な花崗岩をくりぬいて墓室としたもので、入口に扉をもったあとが見られ、その前に二個の大石で羨道を作っています。
古墳としては、きわめて稀な形を持ち、貴重なものです。葬者は不明、おそらくこのあたりに勢威をもった豪族のものでしょう。
文化庁
大阪府教育委員会
寝屋川市教育委員会