はい、今回は寝屋川市にある「寝屋古墳(ねやこふん)」を紹介します。寝屋古墳は、北河内最大級の石室を有する古墳として知られています。
そんな北河内最大級の寝屋古墳は、寝屋川公園内に保存されていますが、魔改造が施されることなく良好な状態で保存されています。魔改造されていない北河内最大級の古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府寝屋川市にある寝屋古墳に行ってきました。
寝屋古墳とは
寝屋古墳のある大阪府寝屋川市に来ています。寝屋川市を通過することはあっても降り立つことは初めてで、古墳がなければ、立ち寄ることは無かったでしょう。もう古墳に感謝しかありません。
市名にもある「寝屋」の由来については、いくつかの説があります。
・生駒山麓にある星田地区は、馬の放牧地として知られており「星田牧」とも呼ばれていた。その牧人達の寝屋が地名の由来となった。
・東高野街道の旅人用の宿泊施設が存在した。
確かなことは不明ですが、古くから宿泊施設が由来した地域として知られていたようです。そんな市名を冠する古墳が「寝屋川公園内」に存在します。
寝屋川公園は、32.3ha(東京ドーム6.8個分)もの広さを持つ公園で、その最北端に寝屋古墳は存在します。
寝屋川公園はかなり広く、寝屋古墳まで駐車場から10分ほど離れています。公園内をブラブラと歩いていると、謎の石像と案内板を発見。どうやら寝屋川市では有名な民話で「鉢かずき姫」について記載されていました。
民話を要約すると「観音様のお告げで娘に鉢を被せたら、取れなくなって色々苦労したけど、最後はハッピー」みたいな話です。はい、要約しすぎましたね。鉄仮面が外せなくて苦労したスケバン刑事2みたいなものでしょう。気になる人は、寝屋川市のホームページをご覧ください。
そんな鉢かずき姫は、寝屋川市の史跡には必ず案内板を持って立っており、中々の存在感を示しています。
鉢かずき姫の案内板から階段を登っていくと、寝屋古墳がドーンと存在。かなりの規模で、迫力を感じます。
寝屋古墳の名前は「寝屋川市寝屋」にあることが由来とされています。寝屋古墳は、緩やかな丘陵地の南面に築造された、直径22m、高さ5mの円墳。
墳丘から葺石や埴輪は出土していませんが、古墳の周囲には幅3m、深さ1mの濠が掘られていたことがわかっています。現在濠跡は、形がわかるように整備されています。
封土はかなり流出しており、特に墳丘の東西が大きく失われています。
埋葬施設は、開口部を南に向けた横穴式石室。石室の形状から6世紀末〜7世紀初頭に築造されたと考えられています。
石室の全長は10mで、花崗岩を組み合わせて造られています。石室は、羨道の天井石、側壁及び、玄室の一部が消失。横穴式石室の規模としては北河内に於いて最大級で、大阪府内でも屈指の規模を有しているとのこと。
玄室は、長さ5.5m、幅2.5m、高さは1.6m。ただし1m近く土砂が流入しているため、本来のの高さは2.6mほど。
玄室内を覗いてみると、奥に黒っぽい物体が置かれていました。Googleマップの過去の投稿写真を確認すると、どうやら「こけし」のようです。いや、石室に朽ちたこけしとか怖すぎです…
ちなみに公園に整備される前は、明治乳業が牧場を営んでおり、石室を危険物の貯蔵所に利用していたとか。昔は大らかな時代だったので、史跡に対しても許されたのでしょう…
石室内は古くから開口していたのか、遺物は、須恵器片のみ。寝屋古墳の周辺には同時代の古墳は存在せず、独立した古墳となっています。大規模な横穴式石室を有していることから、地元でもかなりの有力者の墓だったと考えられます。
大東市・八尾市などの中河内、羽曳野市・河南町などの南河内には古墳時代後期の大規模群集墓が存在しています。これらの群集墓は、渡来系豪族の墓と考えられています。
一方、北河内においては大規模群集墳が存在せず、中河内や南河内とは文化が異なっていたようです。
迫力のある墳丘と、巨大な石室ということで、とても見応えのある古墳ではないでしょうか。広い公園で人もまばらなため、古墳を激写し放題というパーフェクトな古墳でした。
まとめ
今回は、寝屋川市にある「寝屋古墳」を紹介しました。北河内最大級の石室ということで、巨石を用いた迫力のある古墳でした。周濠が魔改造されている以外は、ほとんど自然な姿で残されているのも、古墳感が味わえるポイントといえるでしょう。
しっかり案内板も設置されており、史跡の保存という上ではパーフェクトですが、B級古墳好きとしては、ツッコミどころが少ないのが残念です。まあ、史跡にツッコミどころなんていらないのですが。
という訳で、寝屋古墳の紹介はこの辺で。次回はまた、地域最大級のパーフェクト保存古墳を紹介します。
寝屋古墳詳細
古墳名 | 寝屋古墳 |
別名 | 大谷古墳 |
住所 | 大阪府寝屋川市大字寝屋2370-1 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 22m |
高さ | 5m |
築造時期 | 6世紀末〜7世紀初頭 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
府の史跡 | 1993年11月24日 |
出土物 | 須恵器片 |
参考資料 | ・案内板 ・寝屋川市史 |
案内板
寝屋古墳は、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初頭)の築造と推定されています。主体となる横穴式石室の規模は北河内地域最大と言われています。
周辺地域には、もともと数多くの古墳があったものと思われますが、現存するのはこの寝屋古墳と打出(高良)神社奥の国指定史跡「石宝殿古墳」などわずかになっており、古墳時代ににおける先人達の営みにふれあえることは、歴史的にもきわめて意義あるものです。
平成7年3月
寝屋川公園事務所
大阪府教育委員会
寝屋川市教育委員会