はい、今回は大阪府岬町にある「西陵古墳(さいりょうこふん)」を紹介します。この西陵古墳ですが、古墳時代に活躍した、紀小弓(きのおゆみ)の墓との説があります。紀小弓と言われてもピンときませんが、紀小弓の墓かもしれない古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんなわけで、大阪府岬町にある西陵古墳へ行ってきました。
西陵古墳とは
岬町は大阪府最南端に位置し、和泉山脈を挟んで和歌山市と接しています。岬町は町なので狭いイメージですが、意外と大阪府では10位という広さを誇ります。ただその大半は和泉山脈の山間部で、平野部は大阪湾沿いのわずかなエリアしかありません。

そんな平野部が少ない岬町には150mを超える巨大前方後円墳が2基も存在します。大阪府内で、150mを超える巨大前方後円墳が同一の市町村に複数あるのは、堺市や羽曳野市、藤井寺市(百舌鳥・古市古墳群)以外では、ここ岬町だけです。
ということで、車を走らせて大阪府岬町へやってきました。岬町は通過することはあっても、目的をもってやってくるのは初めてかもしれません。みさき町といえば、みさき公園というイメージですが、それも2020年3月末に閉園されています。民間業者と協力して公園として再開する計画もあったらしいのですが、うまくいかず現在も再開のめどはたっていない模様です。
西陵古墳は、みさき公園の少し北側に存在します。今回は、道の駅みさきに車を停めて西陵古墳へ向かいます。西陵古墳の周囲には複数の古墳が存在しますが、白峠山古墳と真鍋山古墳は立入禁止、西小山古墳はどこからどう見ても地面という難易度の高い古墳となっています。

道の駅みさきから少し歩くとすぐに西陵古墳の巨大な墳丘が見えてきます。西陵古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳。全長は210mを測り、その規模は全国28位、大阪府内でも11位を誇ります。

西陵古墳は南から北へ延びる丘陵の尾根の先端部を利用して造られた古墳で、平野を一望できる南側の高台にあります。墳丘は3段築成で西側くびれ部には方形の造出しを持ちます。墳丘周囲には幅15~35mの周濠が巡りますが、現在は溜池として活用されており本来の周濠とは変形しているようです。墳丘の表面には葺石が敷かれ、円筒埴輪や形象埴輪が並べられていたと考えられています。

埋葬施設に関しては、かつて後円部の墳頂に石棺の一部が露出していました。その後の調査で、東南に少しずれた場所からもう一つの大きな石材が見つかり、これが竪穴式石室の天井石と考えられています。過去に盗掘を受け、石室は破壊、石棺も本来の場所から移動されてしまったようです。また副葬品については、分かっていません。
被葬者については、5世紀中頃に活躍した「紀小弓(きのおゆみ)」の墓ではないかとの説があります。日本書紀によると、紀小弓は雄略天皇の命で、新羅を征伐するために朝鮮へ渡ったと伝わっています。新羅との戦いでは激戦となり、その中で紀小弓は病没しています。その後、天皇は小弓の功績を讃え、田身輪邑(現在の淡輪)に墓を作ることを指示したと記されています。

紀氏は紀伊国を本拠とする一族ですが、和泉国南部にもその影響力は及んでいました。その点からも紀小弓が西陵古墳の被葬者としてもおかしくはありません。ただ、西陵古墳の築造時期が5世紀前半とされているのに対し、紀小弓が亡くなったのは5世紀中頃とみられます。時期的にはズレがあるため、紀小弓の墓は、西陵古墳の北東にある淡輪ミサンザイ古墳を当てる説もあります。

西陵古墳へ登ってみる
ということで、西陵古墳は中に入ることができる数少ない古墳なので行ってみることに。しかし1周してもそれらしき道が見つかりません。古墳脇で農作業されている方に聞いても「ええ、古墳に入るとこあったかなぁ~」と。しかしGoogleマップには入口らしき写真があり、入れるのは間違いありません。もう一度それらしい場所へいくと西陵古墳の案内板を発見。

この案内板の右手から土手が墳丘に続いており、ここから古墳へ行けるようです。ただ、思いっきり茂っており本当に行けるのか若干不安になります。


墳丘に続く土橋を渡ると、西陵古墳に到着。鉄扉がありここから入るのですが、大きく「マムシ注意」の警告が貼られています。入口の荒廃感と併せて嫌な予感しかしません。周りが濠で水場が多いので、マムシが多いのでしょうか。

入口に荒廃感がありましたが、先に進むと意外と道があり難なく先に進むことができます。少し進むと道が二又に分かれています。右は墳丘への登り道、左は墳丘の1段目を周回するルートです。ちなみにここにも「マムシ注意」の警告が書かれており緊張が走ります。

まずは1段目を1周してみましょう。歩いていると拳大ほどの石がゴロゴロと転がっていますが、おそらく葺石ではないでしょうか。かつてはこれらの石が墳丘にビッシリと敷かれていたと思われます。

古墳の南側のくびれ部に行くと、造出しをはっきりと見ることができます。巨大前方後円墳の造り出しということで、なかなかの規模。

ここにも案内が置かれていますがよく見ると「造り出し部はマムシ特に危険」と書かれておりかなりビビらせに来ます。ジッとしてるとマムシが迫ってきてる気分になるので、早々にこの場を離れることに。

1周して先ほどの二又へ戻り、右側の墳丘へ登る道を進みます。少し上ると道が平坦になり、この辺りがおそらく前方部にあたるのでしょう。

前方部をさらに進むと急な坂になりここから後円部になります。枯れ葉が多く、滑りそうになりながら墳頂へ到着。

後円部にはこの辺りに竪穴式石室があり、石棺が埋められているという案内板が置かれています。しかしほとんど訪れる人もいないのか、誰にも会うことはありませんでした。


地元の人でも入れる認識がないので仕方ないかもしれません。もうすこしちゃんと整備すれば観光スポットにもなりそうですが、マムシが多いとそれも難しいかも。

次に西陵古墳には2基の陪塚とされる古墳があるので、見に行ってみましょう。
西陵第一古墳
こちらが西陵古墳から南海電鉄を挟んで北にある西陵第一古墳です。かつては田んぼの中にあったそうですが、現在周辺は住宅地として整備されており、古墳は、みさき台(A)児童遊園内に保存されています。

直径10mほどの円墳ですが、詳しいことは分かっていません。初夏ということで墳丘はシダ系の植物にびっしり覆われています。周囲はフェンスに囲まれていますが、施錠はされておらず入れるようになっていました。

ただ、前面に草が茂っているので墳丘表面は全く見えず。資料によるとかつて祠のようなものが置かれていたようで、その基礎の一部が残っているようです。

他にも古墳を示す石碑が建てられていますが、向きが悪く何が書かれているのか全く分かりません。近くまで行けばいいのですが、草が深く足元が悪いので断念。
西陵第二古墳
西陵第一古墳から少し北側の住宅地に保存されていました。

なにこれ?
家と家のわずかな隙間に、微妙な盛り土がひっそりとありました。墳丘はほとんど削平されており、古墳といわれなければ気づかないでしょう。

資料によると、開墾により徐々に削られて今のような姿になったようです。いや、むしろよくこれだけでも残ったなという感じです。

ちなみにかつてもう一基陪塚が存在したようですが、南海電鉄の敷設工事の際に破壊されたようです。その際に、壺、平瓶、刀身、鉄鏃が見つかっています。年代から西陵古墳よりも新しいものらしく、これら3基が西陵古墳と陪塚関係にあったかは分かっていません。
そんなわけで、住宅地で謎の地面を激写しているのも怪しさ満点なので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府岬町にある「西陵古墳」を紹介しました。中に入ることができる貴重な巨大前方後円墳です。実際に訪れて、紀小弓のオーラは感じることはできませんでしたが、思う存分マムシのオーラは感じることができました。虫も多いので、できれば冬場に訪れた方が快適に巡れるかもしれません。快適に古墳を巡るというのがよく分かりませんが。
ということで、西陵古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、紀小弓の墓かもしれないマムシ古墳を紹介します。
西陵古墳詳細
| 古墳名 | 西陵古墳 |
| 別名 | 無し |
| 住所 | 西陵古墳:大阪府泉南郡岬町淡輪2873-1 西陵第一古墳:大阪府泉南郡岬町淡輪2991-13 西陵第二古墳:大阪府泉南郡岬町淡輪2991-43 |
| 墳形 | 前方後円墳 |
| 規模 | 西陵古墳:210m 西陵第一古墳:直径約10m 西陵第二古墳:不明 |
| 高さ | 西陵古墳:約15m 西陵第一古墳:不明 西陵第二古墳:不明 |
| 築造時期 | 西陵古墳:5世紀前半頃 西陵第一古墳:不明 西陵第二古墳:不明 |
| 被葬者 | 西陵古墳:紀小弓(?) 西陵第一古墳:不明 西陵第二古墳:不明 |
| 埋葬施設 | 西陵古墳:竪穴式石室 西陵第一古墳:不明 西陵第二古墳:不明 |
| 石室全長 | 西陵古墳:不明 西陵第一古墳:不明 西陵第二古墳:不明 |
| 指定文化財 | 西陵古墳:国の史跡(1922年3月8日) 西陵第一古墳:国の史跡(1922年3月8日) 西陵第二古墳:国の史跡(1922年3月8日) |
| 出土物 | 不明 |
| 参考資料 | ・案内板 ・大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告 ・岬町史 ・淡輪古墳群 |
案内板
西陵古墳は、東に位置する宇度墓古墳とならんで泉南地域最大の古墳として知られており、通称「西のニサンザイ」と呼ばれています。墳形は前方後円で、全長約210m・前方部幅約100m・後円部径約115mを測ります。日本書紀によると、雄略9(474)年、天皇の命により、大将軍・紀小弓宿禰らが新羅へ向かい、有利に軍を進めますが、小弓は最後に病没してしまいます。遺体は日本へ持って来られ「田身輪邑(たむのわのむら)に家を造って葬った」と記されていますが、その家がこの西陵古墳ではないかと考えられています。

