はい、今回は大阪府堺市にある「収塚古墳(おさめつかこふん)」を紹介します。収塚古墳は、百舌鳥古墳群の中の一つですが、世界文化遺産には含まれていません。
この収塚古墳ですが、仁徳天皇陵の南東に隣接し、周辺は整備されているため、比較的訪れやすい古墳となっています。そんな仁徳天皇陵に隣接した、整備されている古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。という訳で、大阪府堺市にある「収塚古墳」へ行ってきました。
収塚古墳とは
百舌鳥古墳群は、古墳が最も巨大化した時代に築造された古墳群として知られています。元々は、大小合わせて100基ほどの古墳が存在しましたが、現在は44基が保存。
この時代の特徴として、巨大前方後円墳の周囲に「陪塚(ばいちょう)」と呼ばれる、多くの付属墳が築かれたことにあります。仁徳天皇陵の南側には、東から「収塚古墳」「孫太夫山古墳」「竜佐山古墳」「狐山古墳」の4基が堤に平行に築造されています。距離、位置、築造時期からこれら4基は、仁徳天皇陵の陪塚と考えられています。

そんな訳で、仁徳天皇陵の周辺を巡りながら収塚古墳へ。収塚古墳は、南海百舌鳥駅から徒歩1分程の場所にあり、電車で仁徳天皇陵を訪れる人が最初に目にする古墳です。そんなことが理由かは分かりませんが、収塚古墳は、比較的整備されていました。

収塚古墳は、5世紀中頃に築造された帆立貝形古墳。全長は59m、高さは4.2mを測り、後円部は2段に築成されています。墳丘の裾部に、川原石や割石が散乱していたことから、築造時には葺石が敷かれていたと考えられています。

また築造時には、盾形の周濠が巡らされていましたが、現在は埋没。遺物として、周濠から須恵器の器台、朝顔形埴輪、円筒埴輪、衣蓋形埴輪が出土。また墳頂から、短甲片が出土したと伝わっています。埋葬施設については、調査が行われていないため、分かっていません。

収塚古墳は、前方部を西に向け、仁徳天皇陵の外堤に対して並行して築造されています。墳形が、帆立貝形古墳であることと、仁徳天皇陵との距離の近さから、収塚古墳の被葬者は、仁徳天皇陵の被葬者とかなり関係の深い人物と思われます。
そんな訳で、収塚古墳の周囲を歩いてみることに。こちらがかつて、前方部が存在したあたり。完全に削平されて跡形もありません。しかし前方部が存在した場所だけタイルの色を変えて、規模を示しています。と言っても、上から見ないとよく分かりませんが。

こちらが後円部。墳丘の周囲には柵が巡らされており、中に入ることができません。墳丘の南西には、百舌鳥古墳群でよく見かける名前が刻まれた石碑が置かれていました。

こちらが墳丘の東側。こちらも百舌鳥古墳群でよく見る直方体の古墳名碑が建てられています。だから何だといわれてもこまりますが。

こちらが北側ですが、とりあえず茂みしか見えません。お疲れ様でした。

周囲には公園や広場があり、撮影しやすい古墳でした。ただ、同行していた家族に「写真撮り過ぎ!」と言われたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府堺市にある「収塚古墳」を紹介しました。仁徳天皇陵に近い、整備された古墳ということで、なかなか見やすい古墳ではないでしょうか。古墳とえば前方後円墳というイメージしか無い人には、様々なバリエーションがあると気付かされる古墳かもしれません。そもそも古墳と気づかれない可能性もありますが。
そんな訳で、収塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、天皇陵に近い整備された古墳を紹介します。
収塚古墳
| 古墳名 | 収塚古墳 |
| 別名 | 無し |
| 住所 | 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁149 |
| 墳形 | 帆立貝形古墳 |
| 全長 | 59m |
| 高さ | 4.2m |
| 築造時期 | 5世紀中頃 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 出土物 | 須恵器の器台、朝顔形埴輪、円筒埴輪、衣蓋形埴輪 |
| 指定文化財 | 国の史跡:1958年5月14日 |
| 参考資料 | ・案内板 ・百舌鳥古墳群をあるく |
案内板
時代:5世紀中頃
古墳の形:帆立貝形前方後円墳
古墳の規模:墳丘長59m、後円部高4.2m国史跡:1958年5月14日指定
仁徳天皇陵古墳の陪家の一つで、 もとは前方部が短い帆立貝のような形をした前方後円墳でした。濠と前方部の形は地面のブロックの色を変えて表し、 当時の姿を示しています。
墳丘や濠からは、円筒埴輪や朝顔形埴輪、 蓋形埴輪のほか高杯や器台などの須恵器が見つかりました。 また、かつて後円部には鉄製短甲の破片が散らばっていたとも伝わっています
