はい、今回は奈良県大和高田市にある「陵西陵墓参考地(狐井塚古墳)」を紹介します。ちなみに「陵西」と書いて「おかにし」と読みます。いやいや、これは読めないでしょう。どう読んだら陵を「おか」と読むのか謎なんですが、この辺りは「おかにし」という地名とのこと。
読み方はさておき、この陵西陵墓参考地の周囲には「陪塚(ばいちょう)」と呼ばれる、小型の付属墳がいくつも存在します。ネットの写真をみるとなかなかB級感がある陪塚で、B級古墳好きの心をくすぐる姿でした。そんな訳で、陵西陵墓参考地と陪塚群のある奈良県大和高田市に行ってきました。
陵西陵墓参考地とは
別名「狐井塚古墳」と呼ばれる陵西陵墓参考地は、5世紀後半に築造された前方後円墳。全長75m、高さ6mの規模を測り、墳丘周囲には周濠がめぐらされています。
古墳からは、円筒埴輪や象形埴輪の破片がいくつか出土。埋葬施設は不明ですが、既に盗掘済みと考えられています。北西にある春日神社境内に保管されている石材は、陵西陵墓参考地の石棺に用いられたものとの説も。
被葬者は不明ですが、宮内庁により「難波小野王(なにわのおののみこ)」の陵墓参考地に比定されています。難波小野王は「顕宗天皇(第23代)」の皇后として知られる人物。
難波小野王は、祖父に「雄略天皇(第21代)」を持つ皇族出身の女性です。雄略天皇は、皇位継承をめぐって顕宗天皇の父である「市辺押磐皇子」を殺害しており、難波小野王は顕宗天皇から見ると父の仇の孫になります。
このような婚姻がなぜ行われたかは不明ですが、対立関係にあった「履中天皇(第17代)」を祖とする顕宗天皇の系統と「允恭天皇(第19代)」を祖とする雄略天皇の系統を、和解させる意味があったのかもしれません。
ただ難波小野王と顕宗天皇の間に子はおらず、次代は、顕宗天皇の兄である「仁賢天皇(第24代)」が皇位を継承。このことは、彼女にとって大変に不幸なことでした。
難波小野王は、皇太子時代の仁賢天皇に無礼なふるまいを行った過去がありました。仁賢天皇の即位により、報復をおそれた難波小野王は、仁賢天皇が即位して2年後に自殺しています。
ちなみに古墳の築造時期と難波小野王の活躍した時期とは一致しておらず、実際に陵西陵墓参考地の被葬者が難波小野王なのかは不明。ただ、周辺には陪塚と呼ばれる付属墳が5基も存在しています。この点からも陵西陵墓参考地の被葬者は、かなり身分の高い人物だったと考えられます。
陵西陵墓参考地へ
陵西陵墓参考地のある奈良県大和高田市に来ております。この古墳はかなり削られており、非常に細長く変形しています。
さらに南側は住宅地が迫っており、激写スポットがほとんどありません。
もちろん宮内庁が管理しているので中に入ることもできず、立入禁止の看板が冷たく古墳ファンを突き放します。
一般的な陵墓参考地は、遥拝所は設置されておらず、入口に陵墓参考地の看板が置かれているのみ。とりあえず、陵西陵墓参考地の看板がある場所を探してみます。
グルッと1周して、看板のある場所を発見。「えっ、この雑草が生い茂る細い道を行くんですか」という素敵な場所にありました。
とりあえず撮影するために突入しましたが、看板と石碑と茂みしかありませんでした。入れない、撮影スポットが少ない、茂みしかないという古墳ファン泣かせのよくあるパターンです。
ちなみに看板に書かれている文章は、名前以外定型文。せめて案内板ぐらいおいてほしいところです。
予想を超えた姿の陪塚群
陵西陵墓参考地はほとんど見るところが無かったので、陵西陵墓参考地の陪塚群へ。陪塚群は「いろは」で名前が分けられており「飛地い号」「飛地ろ号」「飛地は号」「飛地に号」「飛地号」の5つの陪塚が存在します。とりあえず、いろは順にめぐっていきましょう。
飛び地い号
あまりにブルーシート過ぎて、古墳と気づかず通り過ぎていました。こんなに小さい古墳も珍しいですが、墳丘全体にブルーシートが被せられている古墳も初めて。古墳とは思えないビジュアルでビックリです。
おそらく小さい古墳なので、雨などによる封土流出を防ぐためでしょう。従来はもっと大きかったはず。
一応、埴輪などが見つかっているらしいので、古墳であることは間違いないようですが、こんなに小さくなって埋葬施設は残っているのでしょうか?
なかなかインパクトのある姿に個人的には大興奮ですが、ブルーシートの前でテンションを上げていると不審者率が高まるので次の陪塚へ向かいます。
飛び地ろ号
こちらが「飛び地ろ号」。先ほどの「い号」より古墳感があふれています。直径13mほどの円墳で、埴輪が出土しているとのこと。
ある程度の規模を保っているためか、ブルーシートは使われていません。金網に囲まれて、石碑が建てられるというオーソドックスな宮内庁陪塚パターン。
とりあえず見つめていても「草むらですね」という感想しかないので次の陪塚へ。ちなみに冬に来たら「土の塊ですね」という感想に変わります。
飛び地は号
こちらが「飛び地は号」。一目で分かるブルーシート古墳です!今回は、全部がブルーシートではなく半分ブルーシートというパターンで攻めてきました。
割と墳丘が低いので、風雨によって少しずつ封土が減っているのかもしれません。よく見ると、柵の棒を墳丘に突き刺していますが、こんな緩い感じの柵は宮内庁の陪塚ではあまり見かけません。
こちらは、15mほどの円墳で埴輪が見つかっているそうです。ブルーシートが気になって、古墳の詳細が頭に入ってきませんでした。
全ブルーシート→ノーブルーシート→半ブルーシートと続きましたが、次はどのパターンでしょうか。
飛び地に号
こちらが「飛び地に号」になります。今回は、ノーブールーシートのパターン。3方を住宅地に囲まれ、1方向からしか見ることができません。
こちらには「立入禁止」ではなく「ゴミ捨て禁止」の看板が掲げられています。さすがに古墳にゴミを捨てるのは気が引けるのか、もしくは宮内庁の方が管理しているためか、ゴミは見当たりませんでした。
宮内庁管理陪塚おなじみの石碑もありますが、撮影ポイントからは遠い場所に。見どころが少ないので、せめて柵の近くに設置して欲しいところです。
こちらも15m程の円墳とのことですが、基本的には草むらです。
飛び地ほ号
こちらが「飛び地ほ号」。この古墳だけ少し離れた場所にある上、少し分かりにくい場所にありました。
三方向があいており、全体象が把握しやすい古墳。ノーブルーシートで、わりと新しめの柵に囲まれています。これまでみた陪塚の中で一番まともな扱い。
この古墳は直径約20mの円墳で、周濠を有していたとのこと。また、須恵器・円筒埴輪・形象埴輪も見つかっているそうです。
陵西陵墓参考地からかなり離れており、もしかすると別の古墳群に属しているのかもしれません。
雑草も程よい高さで芝生のようになっています。周りに住宅地がないというだけで、こんなに扱いが良くなるとは。草と、土の塊の見事なバランスに思わず見惚れてしまいます。
そんな訳で、半日かけて茂みと土の塊とブルーシートを堪能できたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は「陵西陵墓参考地(狐井塚古墳)」とその陪塚を紹介しました。まさかのブルーシート古墳に、感動のるつぼと化しているのではないでしょうか。
古墳を見に行ったのか、茂みを見に行ったのか、ブルーシートを見に行ったのか混乱しそうになりましたが、個人的には楽しむことができました。という訳で、陵西陵墓参考地の紹介は、この辺で。次回はまた別の、ブルーシート古墳を紹介します。
陵西陵墓参考地詳細
古墳名 | 狐井塚古墳 |
宮内庁名 | 陵西陵墓参考地 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 75m |
高さ | 6m |
築造時期 | 5世紀中頃~後半 |
埋葬施設 | 不明 |
被葬候補者 | 難波小野王 |