西求塚古墳|公園に完全擬態した古墳〜兵庫県神戸市〜

西求塚古墳

はい、今回は兵庫県神戸市にある「西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)」を紹介します。西求女塚古墳は、公園として整備された古墳として知られています。

公園と古墳との関係は2パターンあり、公園の中に古墳が保存されているパターンと、古墳自体が公園となっているパターン。西求女塚古墳は後者にあたりますが、あまりにも古墳オーラがなさすぎて完全に公園に擬態しきっている古墳なんです。そんな訳で、兵庫県神戸市にある西求女塚古墳に行ってきました。

西求女塚古墳とは

西求女塚古墳は、3世紀後半に築造された全長98mの前方後方墳。前方後方墳は、前が台形、後ろが正方形の形をした古墳で、主に古墳時代前期に築かれています。

この西求女塚古墳ですが、「菟原処女の伝説(うないおとめ の でんせつ)」の舞台として知られています。

埋葬施設は竪穴式石室で、木棺が納められていました。過去の発掘調査から、数多くの三角縁神獣鏡が出土したことで話題に。ただ、1596年に起きた「慶長伏見大地震」により、埋葬施設は大きな被害を受けています。

西求女塚古墳

前方後方墳と前方後円墳の位置付けについては、諸説があり定まっていません。一説にはヤマト王権と対立していた豪族たちの墓との説もあります。

ただ、ヤマト王権の本拠地である大和国にも、前方後方墳は多数存在します。特に日本最大の前方後方墳といわれる西山古墳は、物部氏の本拠地にあることから、物部氏にまつわる古墳ともいわれています。

また古墳から多くの銅鏡が出土していますが、銅鏡はヤマト王権との関係の深さを表すものとの説があります。西求女塚古墳の被葬者は、この一帯を支配する豪族の墓と考えられますが、ヤマト王権と対立していたのか協力関係にあったのかは議論の分かれるところです。

西求女塚古墳に行ってきました

という訳で、兵庫県神戸市にある「西求女塚古墳」に来ています。といっても、たまたま近くを通っただけなので寄ってみることに。

西求女塚古墳

こちらが西求女塚古墳の南東入口。いきなり「祠」「五輪塔」「石碑」「石仏」の欲張りセットがお出迎え。これだけ色々とりそろえているにもかかわらず、説明など一切無いのもいい感じです。

西求女塚古墳

石仏はかなり無造作に置かれているんですが、大丈夫なんでしょうか・・・

西求女塚古墳

墳丘1段目の小道を歩いていますが、全く古墳と感じるところがありません。完全に普通の公園です。

西求女塚古墳

少し歩いたところに案内板が設置されています。これがなければ、古墳と気付くことはないでしょう。石畳が外側に沿って敷かれていますが、前方部を表しているのかもしれません。

西求女塚古墳

この辺りが後方部にあたります。といっても特に四角さが感じられるわけでもありません。

西求女塚古墳
西求女塚古墳

こちらが、前方部にあたります。もちろん四角さが感じられません、むしろ丸いぐらいです。

西求女塚古墳
西求女塚古墳

古墳の南側に出ると1段下がっているので、古墳といわれるとそうかもしれませんという感じです。といっても前方後方墳には全く見えませんが…

西求女塚古墳

公園なので遊具なども置いています。もう完全に公園にしか見ません。幸いなことに、訪問日はチビッコ達もおらず激写し放題でした。激写し放題なのはいいのですが、平日の真っ昼間からオッサンが公園の至る所を激写していると不審者爆発なので、とりあえず帰ることにしました。

まとめ

西求女塚古墳

今回は、兵庫県神戸市にある「西求女塚古墳」を紹介しました。公園と一体化した古墳なので、古墳を見るワクワク感があまり感じられません。公園に擬態した古墳を見て「公園ですね」と呟きたい人には、オススメの古墳かもしれません。

そんな訳で、西求塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、公園に擬態した古墳を紹介します。

西求女塚古墳詳細

古墳名西求女塚古墳
住所兵庫県神戸市灘区都通3丁目1−17
墳形前方後方墳
全長98m
高さ不明
築造時期3世紀後半
埋葬施設竪穴式石室
被葬者不明
出土品三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡・神人龍虎画像鏡・半肉彫獣帯鏡・鉄製品・碧玉紡錘車形石製品・土師器
国の指定史跡2005年3月2日
参考資料案内板、神戸市HP

案内板

西求塚古墳は、古くは「万葉集」に菟原処女の悲恋伝説にまつわる菟原壮士の墓として詠まれ、東灘区の処女塚古墳や、東求女塚古墳とともに「大和物語」や謡曲「求女塚」などにも登場する古墳として知られています。
大きさは全長約95m、前方後方墳とよばれる珍しい形の古墳であり、築造当初は斜面全体が葺石で覆われていたと考えられています。竪穴式石室と呼ばれる埋葬施設に、中国製の鏡や鉄製の剣、刀、槍などが納められていました。
これらの出土品から、この古墳は古墳時代初期の4世紀の初めごろにつくられたと考えられ、当時のこの地方の有力な豪族の墓であったと考えられます。
味泥地区のまちづくり事業のひとつとして、古墳の再整備が計画されたため、平成4年から、大がかりな発掘調査が行われました。このときに卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が多数発見されています。
語りつぐからにも 幾許恋しきを 直目に見けむ 古壮士
(万葉集 田辺福磨呂)
平成八年十一月 灘区役所 神戸市教育委員会

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