はい、今回は大阪市生野区にある「御勝山古墳」を紹介します。御勝山古墳は、大阪市内で墳丘が現存する数少ない古墳として知られています。
タイトルだけをみると意味不明なんですが、とりあえず徳川秀忠が陣を置いて勝利して、道路に分断された古墳なんです。大阪市に道路分断大勝利古墳と聞いたからには見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府大阪市にある「御勝山古墳
タイトルだけをみると意味不明なんですが、とりあえず徳川秀忠が陣を置いて勝利して、道路に分断された古墳なんです。大阪市に道路分断大勝利古墳と聞いたからには見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府大阪市にある「御勝山古墳」へ行ってきました。
御勝山古墳は、大阪の陣の舞台
御勝山古墳は、その名の通り「御勝山」という山で、大阪5低山の一つ。5低山とは以下のラインナップになっています。
- 天保山…4.53m
- 聖天山…14m
- 御勝山…14m
- 帝塚山…20m
- 茶臼山…26m
ちなみ天保山を除いてそれぞれ、聖天山古墳、御勝山古墳、帝塚山古墳、茶臼山古墳と、全て古墳となっています。
もともと御勝山は「岡山」と呼ばれおり、大坂の陣における要衝でした。大坂冬の陣においては徳川秀忠の陣所となり、大坂夏の陣においては「岡山口の戦い」の舞台にもなっています。
その後、徳川方の勝利ににちなんで「岡山」から「御勝山」に改称。この戦いおいて徳川方は、冬の陣では大坂城を攻めきれず、夏の陣においては家康、秀忠両本陣まで攻め込まれるという苦戦を強いられています。
岡山から御勝山への改称は、いかに徳川方とって大きな勝利だったのか伝わるエピソードではないでしょうか。
古墳のど真ん中を道路で真っ二つに
古墳時代において、現在の大阪市北区から中央区一帯は「河内湖」と呼ばれる大きな湖でした。その河内湖の南端からさらに南にかけて丘陵地となっており、これが現在の上町台地です。
上町台地には先述した「茶臼山古墳」「聖天山古墳」「帝塚山古墳」などが築造され、それぞれ海を見下ろす場所に作られていました。
御勝山古墳は、上町台地の内陸部北端にあることから、河内湖を見下ろす場所にあったようです。
御勝山古墳は、全長100mの前方後円墳。墳丘から円筒埴輪や葺石が出土している事から、5世紀前半に築造されたと考えれています。詳細な発掘調査がされていないため、埋葬施設は不明。
被葬者は一説によると「大小橋命(おおばせのみこと)」ともいわれています。大小橋命は、天児屋根命の末裔を称する豪族で、中臣氏の祖として知られています。
大小橋命が活躍した時代は、応神天皇〜仁徳天皇の時代と思われるので。古墳の築造時期とも比較的近いようです。御勝山古墳は、江戸時代まで前方後円墳としての姿をとどめていましたが、前方部が明治時代に大阪府立農学校の敷地となり平削。
その後、大正時代に考案された都市計画により、御勝山の前方部と後円部は府道173号線により分断されることに。後に平削された前方部は、1976年に御勝山南公園として整備されています。
一方の後円部も1948年に御勝山公園として整備されますが、墳丘は比較的良好な状態で保存されています。
激写難易度高め、公園内古墳の御勝山古墳
大阪市生野区にある御勝山古墳に来ています。今回は、子供を英検会場へ送迎するついでにやってきました。御勝山古墳は、試験会場であるプール学園から徒歩10分ほどのという絶好の場所に存在。試験会場の設定は、古墳ファンに配慮した可能性も考えられます。子供を無事会場に送り届けたので、フリー古墳タイム。ブラブラと御勝山古墳へ向かっていると、気になる石碑が建っていました。
この石碑は昭和14年に建てられたもので「興亜日本 国威宣揚」記されています。この時代は、ちょうど日中戦争の真っ最中で、この年にソ連軍と交戦した「ノモンハン事件」も起こっています。全体的にみると日本軍が優位に戦っていた時期でもあり、ノリで建てられたのかもしれません。
戦後アメリカ軍の統治が始まると、軍国主義的なシンボルの多くは撤去されていますが、意外と堂々と残っているのは驚きです。なんか、バケツは被されていますが…
謎の石碑を後に、少し歩くと御勝山古墳が存在します。古墳は、主要幹線沿いの上に公園内に存在するため人も多く、古墳激写にはかなりの不審者リスクが予想されます。
まず後円部の西側から見てみましょう。古墳の周囲を柵で囲まれており、中に入ることはできません。公園内では親子連れのチビッコたちが遊んでおり、素早い激写が求められます。まあ、茂みが見えるだけなんですが。
道路に分断された後円部南側に移動します。こちらが歩道に面した後円部。完全に茂みです。歩道で謎の茂みを激写敷いている人がいたら私です。
ちょうど古墳の隣が陸橋になっているので、上からも撮影でします。まあ、茂みなんですが…
こちらが後円部東側になりますが、とりあえず茂みです。かなり茂みを激写できたので、徳川軍にあやかり、投資で大勝利をつかめるのは確定でしょう。
激写していると、自転車を漕いでいた近所のお爺さんらしき人にガン見されたので、帰ることにしました。
まとめ
今回は大阪市生野区にある「御勝山古墳」を紹介しました。戦勝記念に改称したと伝わる古墳ということで、勝負事にご利益のある古墳なのかもしれません。ただ、中に入ることもできないので柵の外から祈るしかありません。まあまあ不審者ですが。
そんな訳で、御勝山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、道路に分断された偉い人が陣所にした古墳を紹介します。
御勝山古墳詳細
古墳名 | 御勝山古墳 |
住所 | 大阪府大阪市生野区勝山北3丁目16 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 100m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 5世紀前半 |
埋葬施設 | 不明 |
被葬者 | (伝)大小橋命 |
府の指定文化財 | 1972年3月31日 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
上町台地の東縁部の河内平野を望む低い丘陵上に立地する御勝山古墳は古墳時代中期の5世紀前半に造られた。
慶長19年~20年(1614~15年)の大坂の陣で徳川方の本陣が置かれたため、著しく墳形が破壊され、いまは後円部が残っているだけである。
昭和48年(1973年)の発掘調査で埴輪や葺石が発見された。そして、全長約120m、濠を含めると約150mの中規模の前方後円墳であると推定されるにいたった。