帝塚山古墳|まさか!浦島太郎の墓?~大阪市住吉区~

今回は、大阪市住吉区にある「帝塚山古墳」を紹介します。この帝塚山古墳ですが、実は「浦島太郎の墓」との伝説が残されているんです。

私は思いました「そもそも浦島太郎って実在したの?」と。そんな浅い考えしかなかったため、浦島太郎の墓を探そうと思ったことが一度もありませんでした。実に恥ずかしい話です。

浦島太郎の墓らしきところがあると聞いたら、もうじっとしているわけには行きません。そんな訳で今回は、大阪府住吉区にある「帝塚山古墳」に行って、本当に浦島太郎の墓なのか確かめてきました。

帝塚山古墳とは

帝塚山古墳は、古墳規模は、全長88m、高さ9mの前方後円墳。4世紀末~5世紀初頭の築造と考えられています。封土には葺石が敷かれ、墳丘に円筒埴輪が置かれていたことが分かっています。

詳しい調査が行われていないため、埋葬施設は不明。築造時期から考えると竪穴式石室もしくは粘土槨ではないかと思われます。

帝塚山という名前の通り「山」の扱いらしく、以前に御勝山古墳で紹介した「大阪5低山」の一つ。

もともとこの一体には「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる古墳が存在しました。帝塚山という地名は、この古墳の存在が由来とされています。

小帝塚は大阪市立住吉中学校がある場所にありましたが、現在は消滅。大帝塚が現在「帝塚山古墳」として、一般財団法人住吉村常盤会が管理しています。

帝塚山古墳

一説によると、浦島太郎の墓だけではな、く古墳時代の豪族「大伴金村」の墓との言い伝えもあるそうです。ただ、古墳の築造時期と大伴金村の時代が合わないため、その可能性は低いようです。

本当に浦島太郎の墓なのか?

はい、帝塚山古墳のある大阪市住吉区に来ております。家を出るとき、妻に行き先を聞かれたので「浦島太郎の墓を見に行ってくる」と応えたら「はぁ?」といわれました。実に正しい反応だと思います。

今回は、阪堺電気にのってブラブラと散歩がてらにやってきました。ていうか暑すぎです。散歩どころじゃない暑さです。駅から降りた瞬間来たことを後悔するレベル。もう来た以上は死ぬ気で古墳まで行くしかありません。

帝塚山古墳

阪堺線「帝塚山三丁目駅」から徒歩5分ほど歩くと到着。思ったよりも大きくて迫力があります。ただ、ここからみた限り浦島太郎感は感じられません。

帝塚山古墳

古墳の周囲には浦島太郎の墓とバレないよう、厳重に柵が巡らせています。墳丘には、案内板やら石碑やらが置かれていますが、内容は不明。

帝塚山古墳

東側だけが開けているため、探索ポイントが殆どありません。

南側に行くと、空き地から少しだけみえます。ただの丘にしか見えませんが。

帝塚山古墳

南側の細い路地から墳丘に置かれている石碑が見えますが、「天皇駐蹕碑」と彫られています。「浦島太郎」と彫られているんじゃないかと3度見しましたが、違うようです。

帝塚山古墳

これは明治31年11月に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から閲兵したことも記念に建てられたもの。

古墳の近くにはこのような石碑も残されており、明治天皇の大阪行幸はかなりインパクトがあったようです。

帝塚山古墳

一説には「手塚山」という地名が「帝塚山」になったのは、明治天皇の行幸が由来ではないかとの説もあります。ただ、江戸時代の書物にすでに「帝塚山」の地名があることから、その可能性は低いようです。

とりあえず1周してみましたが、浦島太郎の痕跡は全く見つかりませんでした。まあ、見つかっても怖いんですが。

帝塚山古墳

あまり住宅地のど真ん中で、丘を激写していると不審者率が高まるので帰ることにしました。いや、浦島太郎ってどこから出てきた話なんですか?

まとめ

帝塚山古墳

今回は大阪市住吉区にある「帝塚山古墳」を紹介しました。私の探査能力を総動員した結果、浦島太郎の墓という可能性低いようですが、助けた亀の墓なのかもしれないという結論に達しました。

浦島太郎の墓があるなら、金太郎の墓や桃太郎の墓もあるかもしれません。人生諦めたらゲーム終了なので頑張って探してみたいと思います。

そんな訳で、また浦島太郎の墓と言われる古墳でお会いしましょう。

帝塚山古墳詳細

古墳名帝塚山古墳
住所大阪府大阪市住吉区帝塚山西2丁目8−5
墳形前方後円墳
築造時期4世紀末~5世紀初頭
全長88m
高さ9m
埋葬施設不明
被葬者(伝)大伴金村父子
(伝)浦島太郎
(伝)鷲住王
国の指定文化財1963年10月19日
参考資料案内板

案内板1

住吉村常磐会が所有している帝塚山古墳は、昭和38年国の史跡に指定され、大阪市内に残る数基の古墳のうち、前方後円墳の原形をとどめ、4世紀末から5世紀始めの築営と推定される貴重な古墳です。当初の規模は全長120m、後円部の直径57m、高さ10m、前方部の幅50m、高さ8mであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、集合の後も確認されています。
被葬者は不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説があり、他にも鷲住王(摂津名所図会)、地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったようです。
明治31年(1893年)11月に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から御統監あらされたことを記念する天皇駐蹕碑(大正8年住吉村の建立)が墳丘上に建っています。
当所には市内では珍しい「カンサイタンポポ」をはじめとする植生が見られます。

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