はい、今回は兵庫県神戸市にある「処女塚古墳」を紹介します。ところであなたは、この名前をなんと読みましたか?「しょじょづか」と読んだ人は心が穢れています。いや、穢れきっています。だいぶ反省してください。
この古墳は「処女塚」と書いて「おとめづか」と読みます。この漢字にこの読み方をあてた人は、心が病んでいたのか、大昔はそう読んだのかどちらかでしょう。そんな訳で、こ心が穢れていない人だけこの先をお読でください。
実は兵庫県が日本で一番古墳が多い
突然ですが、日本で一番古墳の多い県を存じでしょうか?実は「兵庫県」なんです。昔、古墳イベントで史跡関係の先生が「古墳の一番多い県はどこかクイズ」を出してきたことがありました。誰も答えられないと思ったのでしょうが、私があっさり答えて、少し困らせた微笑ましい事がありました。
ただその先生、「じゃあ2位は!!」と再質問してきて、分からず悔しい思いをしたのも微笑ましい思い出です。ちなみに2位は鳥取県でした。いや分らんて・・・そんな訳で、とりあえず全国で古墳の多い県ベスト5を置いておきます。冷え切った夫婦間で、会話を取り戻したいときのネタにご利用ください。
順位 | 県名 | 古墳数 |
---|---|---|
1位 | 兵庫県 | 18707 |
2位 | 鳥取県 | 13505 |
3位 | 京都府 | 13103 |
4位 | 千葉県 | 12772 |
5位 | 岡山県 | 11880 |
菟原処女の伝説
処女塚古墳の名は「菟原処女の伝説」が由来します。かつてこの地には「菟原処女(うないおとめ)」という可憐な娘がいて、それはもう男たちからモッテモテだったそうです。その中で「菟原壮士(うないおとこ)」と「茅渟壮士(ちぬおとこ)」が、娘を巡って激しく対立。
この二人の対立に心を痛めた菟原処女は、自害。さらに菟原処女が自害したことを知った二人の男も、後を追って自害してしまいます。
その後、親族たちは長く語り継ぐため娘の墓を中央に、男の墓を両側に作ったとのこと。いや、3人とも簡単に死に過ぎやて・・・この話をもとに、処女塚古墳が菟原処女の墓と伝わっています。ちなみに処女塚古墳の西には「西求女塚古墳」、東には「東求塚古墳」があり、それぞれが男の墓と伝わっています。
私はロマンチック度ゼロなんで、狂気な話に思いますが、この話は奈良時代から和歌にも歌われているそうです。みんなロマンチック過ぎ。ちなみに、この話は後世の人が考えたもので、実際は地元豪族の墓と考えられています。
処女塚古墳に行ってみました
昔から観光名所だったようで、古墳手前には処女塚古墳の道標が残されています。この石碑には「菟原遠とめ塚」と彫られていますが、処女塚と書くのが恥ずかしいので「菟原遠とめ塚」としたのかどうかは分かりません。
こちらが処女塚古墳。周囲を擁壁でガッチガチに固められており、古墳なのかよくわかりません。これを一目見て古墳と分かる人はエスパーですね。
処女塚古墳は、4世紀前半に築造された全長70mの前方後方墳。発掘調査は行われていませんが、埋葬施設は竪穴式石室と考えられています。
過去の調査から多数の三角縁神獣鏡が出土しています。銅鏡が出土し前方後円墳であることから、被葬者はヤマト王権とつながりの深い豪族の墓だったようです。
現在は公園として整備されており、階段も設置され上まで登ることができます。登っても特になにもないんですが・・・
こちらが前方部になりますが、特に何もありません。
こちらが後方部になりますが、全力で何もありません。公園なのでベンチぐらいあってもよさそうですが、清々しいほど何もありません。
古墳の東側に回ってみると、2つの石碑が置かれています。
右の石碑は、武将「小山田高家」の碑で、由来は南北朝時代時代にさかのぼります。湊川の戦いで敗れた新田義貞がこの地へ逃れたものの、馬を失ったため乙女塚で防戦していました。
窮状を見た小山田高家は、自らの馬を新田義貞に与え救出。小山田高家は乙女塚にとどまり時間を稼ぎ、討ち死にしたといわれています。この石碑は、小山田高家の武勇を讃え1846年に建てられたものとのこと。
左側が奈良時代の歌人「田辺福麻呂」の歌碑。田辺福麻呂が旅の途中に処女塚古墳に寄った際「菟原処女の伝説」に感動して詠んだ歌が刻まれています。
古への信太壮士の妻問ひし
菟原娘子の奥城ぞこれ
とりあえず、田辺福麻呂がデマを広めたロマンチッカーの一人と分かったので帰ることにしました。
まとめ
今回は、心の穢れを実感できる「処女塚古墳」を紹介しました。何もないと見せかけて、本当に何もない古墳でした。
この何も無さにに興奮しだしたら末期状態なので、ぜひその興奮を体感してもらいたいところです。次回、気が向いたら西求塚古墳と東求塚古墳を紹介したいと思います。
処女塚古墳詳細
古墳名 | 処女塚古墳 |
住所 | 兵庫県神戸市東灘区御影塚町2丁目8−3 |
築造時期 | 4世紀前半 |
墳形 | 前方後方墳 |
全長 | 70m |
高さ | 不明 |
埋葬施設 | 竪穴式石室(推定) |
被葬者 | 不明 |
国の指定史跡 | 1922年3月8日 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
この処女塚古墳は、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳および灘区都通3丁目の西求女塚古墳とともに、古く万葉の昔からひとびとに知られた有名な古墳であります。大正11年に国の史跡指定を受けましたが、すでに墳丘の一部は道路で削られていました。
処女塚古墳の整備事業は国の補助を受けて、昭和54年度から墳丘の整備をはじめ、昭和59年度に完成しました。
整備に伴う調査の結果、南向きの前方後方墳で、もとの大きさは、全長70メートル、後方部の幅39メートル、高さ17メートル、前方部の幅32メートル、高さ14メートルあり、後方部を三段築成、前方部を二段築成にしていたことがわかりました。
また、墳丘の斜面には石を葺いていましたが、円筒埴輪はたててなく、数個体分の壺形土器が見つかりました。濠の状態については明らかにすることができませんでした。古墳を造った年代は、出土した壺形土器などによって、4世紀と考えることができます。
昭和59年11月 神戸市教育委員会