はい、今回は大阪府柏原市にある「玉手山2号墳(たまてやまにごうふん)」を紹介します。柏原市南部に位置する玉手山には、10基ほどの古墳で構成される「玉手山古墳群」が存在します。
そんな玉手山2号墳は、墳丘の上に共同墓地を作ったという墓被せ古墳。そんな訳で、古墳の上に協同墓地があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府柏原市にある「玉手山2号墳」に行ってきました。
玉手山は大阪夏の陣の激戦地
玉手山と聞いて歴史好きな人はピンとくるかもしれませんが、この山は別名「小松山」ともいわれています。1615年に起こった夏の陣における「道明寺の戦い」としても有名な場所。
豊臣軍は、奈良方面から進撃する徳川軍を、奈良街道出口で迎撃する作戦でした。しかし予想以上に徳川軍の進撃が早かったため、先に到着した後藤基次は単独で小松山にて迎撃する事態に。小松山を包囲した徳川軍と後藤軍は激戦を繰り広げますが、後藤基次は壮絶な戦死を遂げています。
玉手山古墳とは
玉手山古墳群は、玉手山にある1号墳〜10号墳と、少し南にある11号墳と12号墳で構成されています。3世紀後半〜4世紀中頃にかけて築造された古墳で、全て前方後円墳。玉手山から川を挟んで対岸にある古市古墳群は、玉手山古墳の築造が終わると同時に築かれています。その為、
・玉手山古墳を築いた勢力が古市古墳群を作った説
・古市古墳群を築いた勢力が玉手山古墳群の勢力を滅ぼした説
この2つの説があります。その後7世紀に入るまで玉手山に古墳は築かれておらず、約300年間この地はどうなっていたのかよくわかっていません。
予想以上に墓でした
そんな訳で、大阪府柏原市にやってきました。最寄り駅で電動機付自転車をレンタルし、古市古墳群を巡ったついでに玉手山古墳群に寄ることに。もうワッショイ古墳祭です。
玉手山に向かいますが、恐ろしいぐらいの急坂。電動機付自転車なのに、立ちこぎを余儀なくされる角度です。アラフォーのオッサンに厳しい場所に、古墳を作るのはやめてほしいですね。必死な思いで自転車を漕いで、やってきたのがこちらが玉手山2号墳になります。
全力で墓でした
墳丘にビッシリと墓石が並べられている姿は、なかなか壮観。ちょうど丸く盛り上がっているのが前方後円墳の「後円部」で、墓石が山盛りです。ちなみに、この場所は隣接する「玉手山1号墳」から撮影していますが、玉手山1号墳も控えめながら墓地になっています。なんでしょう、古墳を見たら墓地を建てたくなるんでしょうか。
こちらが南側の古墳の全景。うん、墓ですね。どっからみても墓にしか見えません。これが墓じゃないという人がいたら、小一時間ほど問い詰めたいところです。
古墳と思って見みると、なんとなく前方後円墳になっているような気がします。まあ、前方後円墳なんですが。それにしても、古墳(兼)墓地のギリギリのところに家が建ってるんですが、気にならないんでしょうか・・・。個人的に古墳だけなら大丈夫ですが、古墳に墓を乗っけてきたらもう駄目かもしれません。
ちなみに玉手山2号墳の後ろにある茂みは「玉手山3号墳」です。一応、墳頂まで登れるので行ってみましたが、茂みしか見えませんでした。
そんな訳で、あまり墓地を激写していたら不審者なので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、まさかの墓地を上乗せした「玉手山2号墳」を紹介しました。この墓かぶせに興奮しだしたら末期状態なので、この墓かぶせを体感してもらいたいところです。
という訳で、玉手山2号墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、古墳の上に墓を立てたい墓被せ古墳を紹介します。
玉手山2号墳詳細
古墳名 | 玉手山2号墳 |
住所 | 大阪府柏原市片山町1−76 |
築造時期 | 3世紀前半 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 80m |
高さ | 不明 |
埋葬施設 | 竪穴式石室 |
被葬者 | 不明 |