はい、今回は大阪府柏原市にある「玉手山1号墳(たまてやまいちごうふん)」を紹介します。玉手山1号墳の築かれた玉手山は、大坂夏の陣における「道明寺の戦い」の激戦地として知られています。
そんな激戦地に造られた玉手山1号墳には、道明寺の戦いで討ち死にした奥田忠次の墓が建てられています。そんな、古墳の上に戦国武将の墓を建てるという墓被せ古墳と聞いたからには、見に行かざるを得ません。という訳で、大阪府柏原市にある「玉手山1号墳」に行ってきました。
玉手山1号墳とは
玉手山1号墳のある、大阪府柏原市に来ています。柏原市は、全国でもトップクラスに古墳が多い市町村であることはあまり知られていません。特に生駒山地に築かれた「平尾山古墳群」には、1400基以上もの古墳が存在します。ただ、大半は山中にある小型の古墳なので、見に行くのはなかなか難しい状態です。
柏原市では14基の前方後円墳と、数基の円墳から構成された「玉手山古墳群」がよく知られています。ただ築造時期の範囲を巡り、1号墳から10号墳までを玉手山古墳群とする説も。
玉手山古墳群は、開発により多数消滅しましたが、玉手山1号墳は比較的良好な形で墳丘を留めています。そういった理由からか、玉手山古墳群の中で玉手山1号墳が唯一、柏原市の史跡に登録されています。
玉手山は平野部にそそり立つ丘陵地ですが、駅前ということで山全体が住宅地。柏原市においては高級住宅地ということで、とてつもない豪邸もちらほら見かけます。玉手山は1960~70年代の開発により、多数の古墳が消滅。現存する玉手山古墳群は1、2、3、7、8、9号墳の6基で、そのうち中にはいられるのが1、2、3、7号墳の4基となります。
そんな訳で、玉手山の山頂まで登り玉手山1号墳に到着。とりあえず古墳の周囲を一周できるので回ってみましょう。前方部東側は、住宅地により一部浸食されています。
前方部北側から西側にかけては、墳丘のギリギリまで道路が敷かれているため、擁壁による魔改造が施されています。
玉手山1号墳の西には「玉手山A-1号墳」という小型の古墳が存在しましたが、現在は「勝松山公園」になっています。古墳時代前期においてはあまり陪塚(付属墳)は少ないため、玉手山1号墳との関係はよく分かりません。
とりあえず公園内をウロウロしてみましたが、古墳が存在した痕跡はゼロ。ちなみに「勝松山公園」という名前は、玉手山1号墳から少し南にある「玉手山3号墳」が別名「勝松山」と呼ばれていることが由来と思われます。
玉手山1号墳の西側には階段が設置されているので、とりあえず上ってみましょう。
玉手山1号墳は4世紀頃に築造された、全長110m、高さ10mの前方後円墳。規模は7号墳とほぼ同じ大きさで、玉手山古墳群では最大規模。玉手山古墳群において、3番目もしくは4番目に築造された古墳と考えられています。墳丘には葺石が敷かれていたことが分かっていますが、周濠の有無は不明。
階段を上る途中に北側に前方部を見ることができますが、柵があり中に入ることができません。発掘調査によると、前方部から埋葬施設として「粘土槨」が見つかっています。
さらに階段を上り、後円部の墳頂へ。墳頂は小松家の墓地となっており、複数の墓石が建てられています。
後円部は三段に築成され、後円部の裾からは埴輪棺が出土。埴輪といえば墳丘に並べられる円筒埴輪が思い浮かびますが、埴輪の内部が中空ということを利用して使者を埋葬する棺としても利用されることがあります。
埴輪棺は埴輪片を利用したものや、専用に焼いたものなどいくつかのタイプがあります。玉手山1号墳の埴輪棺は2つの円筒埴輪を組み合わせたタイプとのこと。
そんな訳で、墓地を抜けて墳頂にたどりつくと、南側に玉手山2号墳が見えてきます。玉手山1号墳は後円部が墓になっていますが、玉手山2号墳は、墳丘を墓石が全面に覆うパーフェクト墓地古墳。
玉手山1号墳の墳頂には、江戸時代初期の武将「奥田忠次」の墓が建てられています。
玉手山では、1615年に徳川と豊臣が激突した「大坂夏の陣」において「道明寺の戦い」の主戦場でした。道明寺の戦いにおいて、豊臣軍は大和方面より進撃する徳川軍を奈良街道の狭隘な出口付近で迎撃する予定でした。しかし徳川軍の進撃は予想より早く、豊臣軍で予定通りに集結地にたどりついていたのは、後藤基次の部隊だけでした。
作戦の破綻を悟った後藤隊は2800の手勢を率いて、玉手山にて敵を食い止めることに。対する水野勝成を大将とした徳川軍約34,000は、松倉重政、奥田忠次を先方に攻撃を開始。後藤隊は奥田忠次を討ち取る戦果を挙げるものの、圧倒的な兵力差を覆すことはできませんでした。8時間の激闘の末、後藤基次は戦死し、部隊も壊滅しました。
そんな訳で、墳頂に奥田忠次の墓があるため、後円部の本格的な調査は行われていません。ただ発掘調査から、板石を積み上げた方形の壇が見つかっており、中心部に竪穴式石室があると考えられています。
被葬者については、全く分かっていません。一説には玉手山1号墳と、「渋谷向山古墳(景行天皇陵)」「メスリ山古墳」が類似しているといわれています。渋谷向山古墳もメスリ山古墳も大王級の古墳であることから、関係性があるとすれば、玉手山1号墳の被葬者は大和王権とつながりが深い人物だったのかもしれません。
玉手山古墳群は2号墳、7号墳がともに墓地が建てられるという、墓被せ率が高い古墳群となっています。墳丘はいささか改変されてはいるものの、墓があるため守られたという側面もあるかもしれません。
そんな訳で、あまり墓地で激写しているのもよろしくないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は大阪府柏原市にある「玉手山1号墳」を紹介しました。古墳に墓が建てられるケースはよくありますが、江戸時代の武将の墓がある古墳というのは珍しいのではないでしょうか。
この玉手山においては、隣接する藤井寺市・羽曳野市にまたがる「古市古墳群」が築かれるようになると、ピタリと古墳の築造が止まってしまいます。この古墳群を築いた豪族が古市古墳群を築くようになったのか、それとも大和王権に滅ぼされてしまったのか、動向がきになるところです。
そんな訳で、玉手山1号墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、古戦場にあるプチ墓かぶせ古墳を紹介します。
玉手山1号墳詳細
古墳名 | 玉手山1号墳 |
住所 | 大阪府柏原市片山町1−74 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 110m |
高さ | 10m |
築造時期 | 4世紀頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 前方部:粘土槨 後方部:(推定)竪穴式石室 その他:埴輪棺 |
出土物 | 円筒埴輪 |
指定文化財 | 市の史跡:2019年10月1日 |
参考資料 | ・案内板 ・玉手山1号墳範囲確認調査概報 |
案内板
この玉手山一号墳は、古墳時代前期の古墳が営まれた手間手山丘陵の最北端に位置する前方後円墳です。全長は一一〇メートル、後円部の直径は六〇メートルあまり、前方部の平面形は撥形、後円部三段、前方部二段に築造され、さらに墳頂には板石積みの方形壇が築かれていました。この墳頂部の埋葬施設は不明ですが、前方部では粘土槨、後円部の裾では埴輪棺が確認されています。方形壇やテラスの一部には白色の小石が散布され、円筒埴輪(一部は朝顔形埴輪)は密接して樹立されていたようです。三号墳に続き四世紀前半に築造された古墳と考えられています。
二〇〇九年三月
柏原市教育委員会