はい、今回は兵庫県宝塚市にある「中山荘園古墳(なかやまそうえんこふん)」を紹介します。終末期の天皇や有力豪族には「八角墳」という特殊な墳形が用いられていました。
八角墳の数は少なく、全国でも十数基ほどしか確認されていません。主に奈良県に多く存在しており、兵庫県に存在する八角墳は、この中山荘園古墳が唯一。兵庫県唯一の八角墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、兵庫県宝塚市にある「中山荘園古墳」へ行ってきました。
中山荘園古墳とは
中山荘園古墳のある、兵庫県宝塚市に来ています。宝塚市には、かつては多くの古墳が存在しました。地名の宝塚も「塚」は、古墳を意味しており、昔から古墳にゆかりのある地域だったようです。
現在は開発により多くの古墳が失われて、現存する古墳は、長尾連山の南側に集中しています。中山荘園古墳も長尾山丘陵の西部に位置し、南東に伸びた尾根の先端に築造。尾根と聞くと、訪れるのが大変そうなイメージですが、意外と駅から徒歩10分ほどの好立地。
という訳で、今回は阪急宝塚線の売布神社駅から歩いて、中山荘園古墳へ。売布と書いて「めふ」という難読駅名ですが、近くにある「売布神社」が由来と思われます。
売布駅から山の方へブラブラと歩いて行きますが、周りは住宅地で古墳がある感じは一切ありません。10分ほど歩き、中山荘園古墳のある、ライオンズマンション宝塚売布に到着。中山荘園古墳は、このマンションに隣接する公園に保存されています。ちなみに中山荘園古墳には駐車場も駐車スペースもないので、駅から徒歩で行くのが無難です。
中山荘園古墳は、1982年に発見。1983年3月に集合住宅の建設に先立ち、発掘調査を実施しています。1999年に国の史跡に登録されたということで、古墳の手前には案内板も置かれていました。
丘陵地に築造されたということで、わりと急角度な階段が登場。それにしても、よくこんな場所にマンションを建てられたものだと思います。
そして階段を上った先に、中山荘園古墳が存在。標高76mの場所にあり、平坦部を造り築造されています。立地からみて、風水思想に基づいて場所が選定されているとのこと。
古墳名は、この場所の「中山荘園」という地名が由来。地名の由来は不明ですが、誰かの貴族の荘園だったとかそういった古くから伝わる名前ではないようです。
中山荘園古墳は、7世紀中頃に築造された、対角長13mの八角墳。現在の墳丘は円墳状ですが、外護列石が多角形を示しており、八角墳であることが発掘調査により判明しました。ただ完全な八角墳ではなく、石室が開口する南側の前庭部には、テラス状の張り出し部が確認されています。このテラス状の張り出し部については、祭壇などの祭祀が行われた場所ではないかと考えられています。
八角墳は、終末期に皇族やそれに匹敵する有力者に用いられてきました。天武・持統天皇陵や、斉明天皇の真陵とされる牽牛子塚古墳にも、八角墳が採用されています。
[fit_preset-blog_card id=”blog_card-is-preset1″ type=”in” post=”508″ class=”u-color_dull_gray_main u-color_dark_gray_text” title=”関連記事” img_url=”https://esevalue.com/wp-content/uploads/2024/04/187.png”]埋葬施設は、両袖式の横穴式石室。石材は、長尾山丘陵で産出される黒雲母花崗岩と結晶質凝灰岩を用いています。
玄室の奥壁は1枚の巨石を用い、天井石との隙間に割石を詰めています。左右の側壁はどちらも五段積み。パッと見た感じでは分かりませんが、やや持ち送りの構造で上部にかけて内向しているとのこと。
石室の特徴として、羨道部が玄室部に1mほど挿入した形で造られている点にあります。これは終末期古墳の中でも特異な形態で、大阪府太子町にある「松井塚古墳」がこれに近い構造といわれています。
石室内の床には全面に板石が敷かれていましたが、中央部にベンガラによる赤色顔料が付着していたとのこと。このことから、朱塗りの木棺が安置されていたと考えられています。早くから盗掘を受けていたようで、石室内部から見つかったのは「備前焼のすり鉢片」のみ。
皇族クラスに用いられる八角墳ですが、この辺りに皇族が埋葬された記録はありません。ただ、一部の有力者にも八角墳が用いられていたようで、寝屋川市の「石宝殿古墳」や、芦屋市の「旭塚古墳」は、もともと八角墳であった可能性があります。その為、中山荘園古墳の被葬者も、周辺で特に力を有していた豪族の墓と考えられています。
その中で候補に挙がっているのが、「若湯坐連(わかゆえのむらじ)」です。若湯坐連は、川辺郡(宝塚市の大半を含む)を本拠地とする豪族。平安時代に編纂された「新撰姓氏録」に饒速日命(にぎはやひ)を祖とすると記されています。饒速日命は、物部氏の祖でもあることから、若湯坐連は物部氏に連なる一族と考えられています。
物部氏宗家は6世紀末に、丁未の乱にて蘇我氏により滅ぼされています。しかし、支流は各地で勢力を維持していました。中山荘園古墳の南西に存在する「売布神社」も、元々は若湯坐連が祖神を祀るために創建したと考えられています。
実際に若湯坐連の墓かは不明ですが、被葬者は、八角墳を大和王権に許されるほどの有力者が埋葬されていたようです。
という訳で、八角墳を間近で見ることができる貴重な古墳でした。石室内部には入られませんが、中はよく見ることはできます。ツッコミどころが無いのが少し寂しいですが、見応えのある古墳ではないでしょうか。
まとめ
今回は、兵庫県宝塚市にある「中山荘園古墳」を紹介しました。自然な姿で復元された八角墳ということで、宝塚市にきたら見ておきたい古墳の一つではないでしょうか。
という訳で、中山荘園古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、八角墳が間近で見られる古墳を紹介します。
中山荘園古墳詳細
古墳名 | 中山荘園古墳 |
住所 | 兵庫県宝塚市中山荘園12−298 |
墳形 | 八角墳 |
全長 | 対角長13m |
高さ | 2.6m |
築造時期 | 7世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
石室全長 | 3.4m |
指定文化財 | 国の史跡:1999年1月28日 |
出土物 | 鉄釘・須恵器片・土師器片、備前焼のすり鉢片 |
参考資料 | ・案内板 ・兵庫県市 |
案内板1
中山荘園古墳(国指定史跡)
この古墳は昭和57年に発見され、その後、開発に伴う事前の発掘調査によって、形が多角形であることがわかりました。古墳は南面する尾根の先端につくられており、外護列石が八角形に近い形でめぐり、前庭部にテラス状の祭壇と考えられる施設があります。対角長は約13mで、古墳が作られた時期は石室の構造や墳丘の状態から考えて、7世紀のなかば頃と考えられます。この地方の有力豪族が葬られたとみられ、わが国の終末期の古墳を考える上で貴重な史跡です。
古墳の整備は発掘調査の資料をもとに復元したものですが、階段等のアプローチ部分は新たに作ったものです。
宝塚市教育委員会