はい、今回は奈良県香芝市にある「顕宗天皇陵(けんぞうてんのうりょう)」を紹介します。第23代の顕宗天皇は、貴種流離譚のエピソードを持つ人物として知られています。
現在、香芝市に存在する古墳が宮内庁により「顕宗天皇陵」に比定されています。ただ考古学的にも「これは顕宗天皇陵ではないでしょ」と言われており、実際には別人の墓と考えられます。そんな訳で、宮内庁が顕宗天皇陵としているけれども、実際は違うらしいという顕宗天皇陵へ行ってきました。
顕宗天皇とは
顕宗天皇は第23代の天皇で、仁徳天皇から見て曾孫にあたる人物。諱(いみな)は、弘計(をけ)といい、同母兄に仁賢天皇となる億計(をけ)がいます。
顕宗天皇の父である市辺押磐皇子は、皇位継承争いに巻き込まれ、従兄弟の「大泊瀬幼武尊(後の雄略天皇)」に殺害。そのため、幼少時に兄と逃亡を余儀なくされました。
兄弟共に名を変えて各地を放浪。後に播磨国の縮見屯倉首の元で、身分を隠し牛馬の飼育役に就いていました。やがて雄略天皇は崩御し、息子の清寧天皇が即位。しかし雄略天皇が有力皇族をあらかた粛正していたため、子のいない清寧天皇は、後継者問題に頭を悩ませていました。
そんな時、弘計はいつまでも身分を隠して生きていくよりも、身分を明かすことを決意。二人の身分を知った主の縮見屯倉首は驚き、清寧天皇に報告。話を聞いた天皇は大いに喜び、二人を都に迎え入れました。
兄の億計が清寧天皇の後継者となりますが、天皇が崩御すると兄は皇位を弘計に譲ろうとします。この譲り合いは数年続きましたが、最終的に弘計が23代天皇(顕宗天皇)として即位。顕宗天皇は流浪の生活を送っていたことから世俗の暮らしに精通しており、民に寄り添った治世だったようです。
そんな顕宗天皇でしたが、即位してわずか3年程で崩御。古事記によると「傍丘磐坏丘陵」、延喜式には「傍丘磐坏丘南陵」に葬られたと記されています。
名前に「傍丘磐坏丘南陵」とあるように、対なる古墳として「傍丘磐坏丘北陵」が存在します。傍丘磐坏丘北陵は武烈天皇陵とされ、顕宗天皇陵から約1kmほど北にある山が宮内庁により「武烈天皇陵」に比定されています。
本当に顕宗天皇の墓なのか?
という訳で、顕宗天皇陵のある奈良県香芝市に来ています。香芝市は奈良県西部に位置し、山地を挟んで大阪府と接しています。古くから交通の要衝として発展しており、数多くの史跡が存在しています。顕宗天皇陵は香芝市北部に位置し、市を南北に走る国道168号線沿いに存在。そんな好立地にある顕宗天皇陵ですが、宮内庁が管理しているため中に入ることはできません。
陵の南側には遥拝所が設けられており、参拝することができます。
ただ天皇陵の遥拝所はほぼテンプレートで、特に見所はありません。
顕宗天皇陵は、この時代の天皇陵としてはあまり大きくありません。歩いても5分もあれば1周することができます。そんな顕宗天皇陵ですが、本当に顕宗天皇の墓であるかには疑問が持たれています。
宮内庁管理によると墳形は「前方後円」となっています。しかし実際は東西90m、南北70m、高さ15mの円墳と考えられています。この時代、大王級の古墳は前方後円墳で、円墳というのは身分に合いません。
兄の仁賢天皇陵が全長122mの前方後円墳、前代の清寧天皇陵が115mの前方後円墳であることから、顕宗天皇陵も100m級の前方後円墳でなければ釣り合いません。
また顕宗天皇陵周辺の発掘調査からは古墳時代後期の須恵器が出土しており、顕宗天皇の時代と合いません。顕宗天皇陵のある藤山丘陵には今市古墳群や藤丘古墳群が存在し、複数の小型古墳が存在していました。現在の顕宗天皇陵はこの藤山丘陵における最大規模の古墳であることから、一帯を治めた豪族の首長墓である可能性もあります。
真の顕宗天皇陵は?
では、本当の顕宗天皇陵はどの古墳なのか?これについては江戸時代から長く議論され、定まっていません。決め手に欠く理由として地名の「片岡(傍丘)」の範囲に諸説あること。そして、顕宗天皇陵の「傍丘磐坏丘南陵」の対なる古墳として武烈天皇陵の「傍丘磐坏丘北陵」が存在する点。つまり片岡とされる場所に、5世紀末~6世紀初頭に築造された、巨大前方後円墳が南北に2基存在するという条件に当てはまる必要があります。
しかしその条件に合う古墳が存在しないため、古くから真の顕宗天皇陵については議論が続いています。浦生君平による『山陵史』(1808年)では、大和高田市にある「狐井塚古墳」を顕宗天皇陵の南陵、「築山古墳」を武烈天皇陵の「北陵」と記しています。
また江戸時代には、香芝市北部のにある「平野塚穴山古墳」を顕宗天皇陵とし、西にある「平野車塚古墳」を武烈天皇陵とした時期もありました。
宮内庁も現顕宗天皇陵の比定に自信がなかったのか「築山古墳」を顕宗天皇陵の陵墓参考地としています。
ただ狐井塚古墳、平野塚穴山古墳、築山古墳ともに築造時期と顕宗天皇の治世に隔たりがあり、考古学的には否定的です。現在、有力候補の一つとして、同じ香芝市にある「狐井城山古墳」が挙げられています。
狐井城山古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造された全長140mの前方後円墳。時期、規模的にも顕宗天皇陵としては有力な候補の一つとされています。その場合、すぐ北にある「狐井稲荷古墳」が武烈天皇陵の北陵に相当することになります。しかし狐井稲荷古墳は、全長70mほどの前方後円墳のため、規模として武烈天皇陵としてはふさわしくありません。
狐井城山古墳を武烈天皇陵とする説もあり、なかなか決め手が見つからないのが現状のようです。
顕宗天皇陵の陪塚を巡る
現在の顕宗天皇陵が顕宗天皇なのか怪しいのですが、宮内庁が定める陪塚が3基存在しています。という訳で、近くにある陪塚の3基も見に行ってます。
陪塚い号
陪塚い号は、顕宗天皇陵から南に100mほどの場所に存在。北と東は住宅に接しており、西も宅地開発が進んでいます。墳形は大きく削られているようで、元々の形は不明。コンクリートの柱と針金で柵が巡らされており、中に入ることはできません。ただ柵は低く、針金の間隔も広いので墳丘の姿はよく見えます。
宮内庁の管理する陪塚の証となる石柱も、分かりやすい場所に建てられています。顕宗天皇陵の陪塚の中では一番行きやすく見やすい古墳でしょう。
陪塚ろ号
陪塚ろ号は、顕宗天皇陵から南南東へ100mほどの場所に存在します。住宅地のどん詰まりにあり、とても分かりにくい場所にあります。住んでいる人しか通らない道にあり、行くのは少し勇気が必要。
こちらも墳形は大きく削られているようで、元々の形は不明。陪塚ろ号もコンクリートの柱と針金で柵が巡らされており、中に入ることはできません。ただ柵は低く、針金の間隔も広いので墳丘の姿はよく見えます。
ただ家に接するように謎の盛り土が存在する異様な空間で、激写にはかなり勇気がいります。謎の盛り土激写オジサンを不振に思う住人がいつ出てきてもおかしくないので、早々に退散。訪れ易い場所にありますが、訪れにくい雰囲気が満ちあふれています。
陪塚は号
陪塚は号は、顕宗天皇陵から南東に200mほどの場所に存在。陪塚は号が一番難易度が高い古墳で、会社の敷地を通り抜ける必要があります。どこかに抜け道がないか調べてみましたが、会社の敷地を通るしかありません。
ワザワザ会社に声をかけて見に行っても、謎の盛り土が見えるだけな気がしたので、敷地外から遠目に撮影するだけにしました。間違いなく、この古墳が一番難易度が高いでしょう。
まとめ
今回は奈良県香芝市にある「顕宗天皇陵」を紹介しました。現在の顕宗天皇陵が、実際に顕宗天皇の墓である可能性は低いようです。ただ宮内庁の比定する古墳にはよくある事なので、仕方ありません。
宮内庁としては墓誌などが見つからない限りは、疑問のある天皇陵について見直す予定はないようです。見どころは少ない古墳ですが、本当の顕宗天皇陵はどこなのかと考えるのも、興味深いのではないでしょうか。
という訳で顕宗天皇陵の紹介はこの辺で。次回はまた別の、被葬者が怪しい天皇陵を紹介したいと思います。
顕宗天皇陵詳細
古墳名 | 顕宗天皇陵 |
宮内庁名 | 傍丘磐坏丘南陵 |
住所 | 奈良県香芝市北今市 |
墳形 | 宮内庁:前方後円 現状:円墳 |
直径 | 東西90m 南北70m |
高さ | 14m |
築造時期 | 不明 |
被葬者 | 顕宗天皇 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 不明 |
参考資料 | ・天皇陵総覧 ・香芝市埋蔵文化財発掘調査概報4 ・香芝市埋蔵文化財発掘調査概報6 ・葛城の大王墓と太古の祈り |