はい、今回は奈良県香芝市にある「平野塚穴山古墳(ひらのつかあなやまこふん)」を紹介します。平野塚穴山古墳は国の史跡で、2020年に公園として整備されています。
公園古墳ということで魔改造が施されており、その結果とてつもなく防御力高めの古墳に仕上がっています。そんな訳で、どれほど防御力が高いかを確かめるべく、平野塚穴山古墳へ行ってきました。
トーチカ級の入口
平野塚穴山古墳のある、奈良県香芝市にきています。平野塚穴山古墳は奈良県西部に位置し、明神山の支脈の先端に築造された古墳。周辺にある4基の古墳と合わせて「平野古墳群」を構成しており、平野塚穴山古墳は「5号墳」にあたります。
かつては他にも古墳が存在したようで、江戸時代後記に記された「平野村絵図」によると、付近には「岩屋」や「七石」の文字が記載されていました。これらは石室や石室の残骸と思われます。現在、3、4号墳は開発により消滅。1号墳(平野車塚古墳)、2号墳、そして、5号墳(平野塚穴山古墳)が保存されています。
そんな訳で、平野塚穴山古墳にやってきました。2020年に整備されたとあり、全てに真新しさを感じます。敷地には案内板が2つも設置されており、なかなか気合いが入っています。
なぜか墳丘には火遊び禁止の看板が設置されていました。ここで火遊びする人なんているのでしょうか…
平野塚穴山古墳は、7世紀後半に築造された1辺25m、高さ5.4mの方墳。2段に築かれており、築造時は墳丘表面には、二上山産凝灰岩の貼石が施されていました。
7世紀末の終末期古墳において墳丘に貼石が施された古墳は、天武・持統天皇の陵墓に治定されている「野口王墓古墳」や斉明天皇の真陵と考えられている「牽牛子塚古墳」など、王陵級の古墳に限られています。
整備前の平野塚穴山古墳は、長い年月を経て封土の大半は失われ、埋葬施設の劣化が進んでいました。加えて石室崩壊の恐れもあり、2018年に国の史跡として登録。2020年に史跡公園として公開保存されました。
ということで、墳丘に登って石室に向かいます。石室の入口は巨大な石に保護されており、まるでトーチカ。これだけ頑丈に造っておけば少々のことは大丈夫そうです。ちなみにこの石は、埋葬施設の石材に近いものを使っているとのこと。
古墳ファン的には、あまり好きな保存方法ではないと思いますが、一般公開するためにはやむを得ないのかもしれません。それにしても、かなり防御力は高そうです。
柵があり玄室に入ることはできませんが、柵越しに埋葬施設である「横口式石槨」を見ることができます。横口式石槨は、全長4.47mの規模を有し、二上山で産出する凝灰石を組み合わせて造られています。
内部は、加工された切石を組み合わせた美しい構造ですが、底部に2ヶ所空いている穴は謎。
横口式石槨としては初期型の特徴を持ち、天武・持統天皇の陵墓に治定されている「野口王墓古墳」との類似性が指摘されています。
古墳は早い段階で盗掘を受けたようで、副葬品はほとんど残っていません。ただ、漆で貼り重ねる技法によって作られた「夾紵棺(きょうちかん)」などの破片が見つかっています。
夾紵棺は高貴な身分の人物に用いられ、藤原鎌足の墓と考えられている「阿武山古墳」や聖徳太子の墓とされる「叡福寺北古墳」などからも出土しています。
被葬者は不明ですが、墳丘への貼石、横口式石槨、夾紵棺という点から、皇族クラスの墓であると考えられています。この一帯は古代において「片岡」と呼ばれる場所に含まれており、江戸時代には「顕宗天皇陵」とも記されていました。ただ築造時期と顕宗天皇の治世には開きがあるため、現在は否定されています。
被葬者の有力候補としては、敏達天皇の孫にあたる「茅渟王(ちぬのおおきみ)」が挙げられています。茅渟王の事績はほとんど記録にありませんが、彼の子息が皇極天皇(斉明天皇)と孝徳天皇として即位し、その子らが天智、天武天皇として続いています。
茅渟王の墓とされる理由としては、下記が挙げられています。
・諸陵寮に片岡葦田墓に葬られたと記載
・時代的に辻褄が合う
・墳丘、埋葬施設、棺が皇族クラス
また、平野塚穴山古墳の北側には「平野窯跡群」や「尼寺廃寺跡」が存在。大量の須恵器生産や、大規模寺院の建立には、強い権力を有する必要があります。被葬者が大規模な寺院や窯を保有していたとすれば、茅渟王の墓である可能性は高いかもしれません。
ちなみに平野塚穴山古墳に隣接する正楽寺の境内には「石造線刻阿弥陀如来坐像」が存在。平安時代後期に彫られたとされ、板状の凝灰岩に浅く阿弥陀如来坐像が彫り込まれています。実はこの板状の石は、古墳の石棺を利用したものではないかとのこと。
平野塚穴山古墳は石棺ではないので、平野穴塚山古墳のものではないと思われますが、周辺にはいくつもの古墳が存在したことから、そこから持ち込まれたのかもしれません。
まとめ
整備された古墳公園ということで、情報も充実し非常に見やすい古墳でした。トーチカ的な魔改造が施されていますが、使用する石材は石槨と近い種類のものを選ぶなどこだわりを感じさせます。皇族クラスの古墳ということで、本来なら宮内庁が管理するレベルの古墳ですが、だれでも見られる、大変貴重な古墳ではないでしょうか。
そんな訳で平野塚穴山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、防御力高めの高貴な古墳を紹介します。
平野塚穴山古墳詳細
古墳名 | 平野塚穴山古墳 |
住所 | 奈良県香芝市平野1053 |
墳形 | 方墳 |
一辺 | 18m |
高さ | 4m |
築造時期 | 7世紀後半 |
被葬者 | 推定:茅渟王 |
埋葬施設 | 横口式石槨 |
国の指定史跡 | 1973年6月18日 |
出土物 | 金環、中空玉、銅鋺、漆塗籠棺の破片 |
参考資料 | ・パンフレット(香芝市教育委員会) ・史跡平野塚穴山古墳の発掘調査の概要について ・案内板 |
案内板1
平野塚穴山古墳は7世紀代に造られた平野古墳群の西端に位置します。江戸時代の絵図には顕宗陵と描かれていた時期があります。昭和47(1972)年の発掘調査で飛鳥時代の王陵級の棺(柩)に使われる夾貯棺や漆塗籠棺の破片が出土しており、7世紀の貴重な終末期古墳であることから昭和48(1973)年に国の史跡に指定されました。
その後、墳丘の流出が続き、埋葬施設の凝灰岩の横口式石槨(石室)の劣化が進んでいることから、史跡をごし、地域の文化資源として活用するため、平成28(2016)年から令和2(2020)年3月にかけて、墳丘の南側を追加指定して史跡整備事業を行いました。
整備にあたっては、ほぼ築造当初の大きさに墳丘を復元し、テラス(平坦部)を利用して通路を設けました。また、横口式石槨は、正面に二上山の凝灰岩と同等の凝灰岩(兵庫県産の竜山石)の切石を設置して石槨を保護しています。
二上山の凝灰岩で造られた横口式石槨としては、古墳築造当初の状態で見学することができる国内でも数少ない貴重な終末期古墳です。
令和2(2020)年3月 香芝市教育委員会
案内板2
平野塚穴山古墳は、南面する丘陵斜面中腹に造られた墳丘上段約18m、高さ約3mの上下2段築成の方墳です。墳丘下段は盛土が流失しているため、正確な規模は不明ですが、復元すると一辺約25m、高さ2.7mになります。
埋葬施設は、全長4.47m(玄室長3.5m、玄室幅1.5m、玄室高さ1.76m)の横口式石槨(石室)で、二上山麓で産出する凝灰岩の切石を組み合わせて構築されています。
昭和47年(1972)年の奈良県教育委員会による発掘調査では、金環や中空玉、銅鋺の破片が出土をはじめ、当時の最高級の棺である夾紵棺や漆塗籠棺と推定される漆塗製品の破片が出土しました。横口式石槨の形態や造営尺度には中国の唐尺(1尺30㎝前後)が使用されていることから、7世紀後半の築造と考えられています。
平成28(2016)年から令和元(2019)年の香芝市教育委員会による発掘調査では、墳丘の装飾用の貼石とみられる凝灰岩や横口式石槨を構築する際の梃子穴が見つかりました。いずれも飛鳥地域の王陵級の古墳の石室と共通の技法で造られていることから、当古墳の被葬者は王族に匹敵する人物と推定されます。
横口式石槨は、羨道を持つ横穴式石室の形態を残していることから、特別史跡高松塚古墳などの二上山の凝灰岩の切石を組み合わせて構築された横口式石槨の先駆形態として位置づけられ、7世紀の重要な終末期古墳です。
令和2(2020)年3月香芝市教育委員会