はい、今回は大阪府岸和田市にある「女郎塚古墳(じょろうつかこふん)」を紹介します。変わった名前の古墳ですが、「女郎地獄大夫の墓」との言い伝えが残されています。
女郎地獄大夫と言われても全然わからないと思いますが、私も全く知りません。そんな謎の女郎地獄大夫の墓かもしれない古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府岸和田市にある「女郎塚古墳」へ行ってきました。
女郎塚古墳とは
女郎塚古墳のある、大阪府岸和田市に来ています。岸和田市は大阪府南部でも古墳の多いエリアの一つ。特に貝吹山古墳を中心とした「久米田古墳群」が特に知られています。「貝吹山古墳」を盟主墳とした古墳群で、女郎塚古墳を含め、8基の古墳から構成されています。かつては他にも数基の古墳が存在したようで、本来は10基ほどの古墳により構成されていたようです。
そんな訳で、今回は久米田古墳群を巡りながら女郎塚古墳へ。JR久米田駅から東へ歩き、久米田古墳群を目指します。久米田古墳群の大半は久米田公園内に保存されていますが、女郎塚古墳は公園に隣接する岸和田中学校内に保存されています。
なかなかの盛り土ですね。
流石に学校の中にあるという訳で、中に入るわけにはいきません。とりあえず入口付近から眺めることに。
女郎塚古墳は、5世紀前半に築造された直径28mの円墳。墳丘は二段に築成され、円筒埴輪が並べられていました。墳丘はいくらかの改変を受けていますが、周堀の存在が確認されています。葺石については見つかっておらず、築造時に敷かれていたのかは分かっていません。また埋葬施設についても不明。久米田古墳群は主体部の損壊されているものが多く、比較も難しいようです。
被葬者については不明ですが、地元では「女郎地獄大夫の墓」との言い伝えが残されています。室町時代、堺に「地獄大夫」という遊女が存在しました。山中にいたところを賊に捕まるも、あまりに美貌だったため遊女として売られたとのこと。
あるとき、一休さんの名で知られる一休宗純は、遊郭に訪れた時に地獄大夫といくつかの歌のやり取りを交わすことに。その際、お互いに粋な歌を交わしたことをキッカケに、地獄大夫は一休宗純に師事したといわれています。一説によると、地獄大夫は早世したため一休宗純は久米田寺に塚を立てて葬ったといわれています。遊女のことを「女郎」とも呼ぶことから、この地獄大夫が「女郎塚」という古墳名の由来となったようです。
女郎塚古墳は久米寺のすぐ近くに存在しますが、円筒埴輪が見つかっているため古墳時代に築かれたものであることは間違いありません。地獄大夫は室町時代の人物であるため、女郎塚古墳が地獄大夫の墓である可能性はありません。おそらく、久米田一帯に勢力を持った豪族の墓と考えられます。
ちなみに久米田古墳群に伝わる被葬者の伝説は、時代が無理があるものが多いのも特徴です。
・貝吹山古墳=橘諸兄(8世紀の人物)
・光明塚古墳=光明皇后(8世紀の人物)
・志阿弥法師塚古墳=志阿弥法師(8世紀の人物)
・女郎塚古墳=地獄大夫(15世紀の人物)
そんな訳で、オッサンがスマホをかざしながら校内を撮影してると完全に不審者なので、門の外から撮影しました。ただ、門の外から土の塊を激写してるオッサンも十分不審者するので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪府岸和田市にある「女郎塚古墳」を紹介しました。地獄女郎大夫という謎の人物の墓と伝わる古墳ですが、実際は時代が合わないので違うようです。中学校の中にある古墳ということで、遠目に謎の盛り土を見つめるしかありません。古墳見つめ派の方には、オススメの古墳ではないでしょうか。
そんな訳で、女郎塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、中学校内にある古墳を紹介します。
女郎塚古墳詳細
古墳名 | 女郎塚古墳 |
別名 | 地獄大夫古墳 |
住所 | 大阪府岸和田市池尻町 (久米田中学校内) |
墳形 | 円墳 |
直径 | 約28m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 5世紀前半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
石室規模 | 不明 |
出土物 | 円筒埴輪片 |
指定文化財 | 岸和田市の史跡:1956年8月 |
参考資料 | ・岸和田市史 |