はい、今回は奈良県葛城市にある「平林古墳(ひらばやしこふん)」を紹介します。ここ平林古墳は、古墳にもかかわらず桜の名所として地元では有名な場所なんです。
古墳にもかかわらず、桜の名所と聞いたからには見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県葛城市にある「平林古墳」へ行ってきました。
葛城地方最後の前方後円墳
平林古墳は、6世紀後半に築造されたとされる前方後円墳。全長62m、高さ8.8mの規模を有し、葺石と空堀の存在が確認されています。埋葬施設は、花崗岩を用いた「横穴式石室」。盗掘され石棺は失われていますが、銅鏡、農機具、馬具、武器、土器などの副葬品が見つかっています。
6世紀後半になると、古墳の規模は天皇陵をはじめ縮小傾向にありました。地方豪族の墓も同様に小型化。その中で平林古墳は、葛城地方で最後に築造された前方後円墳と考えられています。
もともと葛城地方は、竹内宿禰を祖とする「葛城氏」が本拠地とする地域でした。葛城氏は、大王家に幾人もの妃を送る有力豪族で、ヤマト王権おいて強い権力を有していました。仁徳天皇の妃も葛城氏出身の人物で、外戚として強い発言権を有していたようです。
しかし5世紀の中頃、葛城氏は皇位継承問題に巻き込まれて、雄略天皇により粛清。以降、葛城氏は大きく衰退してしまいます。
代わりに葛城地方で台頭したのが、葛城氏と同じく竹内宿禰を祖とする「蘇我氏」です。葛城氏の没落により、蘇我氏がその地盤を引き継いだと思われます。
平林古墳が築造されたのは、葛城氏が衰退後の蘇我氏全盛期になります。平林古墳は前方後円墳であることから、ヤマト王権と強いつながりを持つ豪族が被葬者と考えられます。そうした意味で平林古墳の被葬者は、蘇我氏なのか、葛城氏の生き残りなのか、地元の有力な豪族なのか興味深いところです。
花見と称して平林古墳へ
はい、奈良県葛城市にきております。今回、家族には「奈良に桜が綺麗なところがあるので見に行こう」としか伝えておりません。桜が綺麗なところが偶然古墳だったという設定です。完璧ですね。
平林古墳には駐車スペースが無いので、近くにある「道の駅かつらぎ」に停めます。道の駅かつらぎは、常に混み合う人気道の駅なんですが、変なケーキが売っていたりしてなかなかチャレンジャーです。何を思ったらこのケーキの発想になるのでしょうか。
道の駅から平林古墳までは、徒歩15分ほどの距離。途中移設された石棺や神社に寄りながら向かいますが、家族はどこに連行されるのかと若干不安気味。まだまだ修行が足りませんね。
そんなこんなで平林古墳に到着。桜のシーズンということで、墳丘で花見をしているグループがいくつか見受けられました。この平林古墳は普通に登ることができるので、花見場所には悪くありません。
桜の名所というだけあって、墳丘にも道沿いにも桜が咲き誇っています。古墳の隣が墓地になっているのが少々あれですが、ロケーションはなかなかいい感じです。
後円部には横穴式石室が整備して保存されています。円墳で横穴式石室が保存されているところは結構あるんですが、前方後円墳で保存されているのは珍しいですね。整備保存された石室も見れて楽しいのですが、家族は1mmも楽しそうではありませんでした。不思議です。
前方部にはすでに数グループが陣取っていたので、後円部でお弁当でも食べようかと家族に提案すると「石室の上でお弁当は無理!」と反対意見が。おかしいですね、私は何の違和感もありませんが…
仕方なく墳丘のすそ野でお弁当を食べ、その後に墳丘に登ってみます。古墳の多くはだいたい草木で荒れ放題なんですが、平林古墳はきれいに整備されているので歩きやすいですね。
こちらが後円部の墳頂。すこし木が邪魔ですが、葛城市が一望できるなかなかの景色。
被葬者もなかなかのロケーションを選んんだものです。まあ作らされる側からすれば、こんなところまでデカい石を運べといわれたらブチギレますが。この先が前方部。花見客の近くで激写していると不信人物なので、行くのはやめました。
あらゆる角度から古墳を激写していましたが、子供たちが秒で飽きてきたので帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県葛城市にある「平林古墳」を紹介しました。家族には、桜でなんとか古墳オーラを消そうと試みましたが、まったく消すことは叶いませんでした。家族で花見に行く時は、トラブル回避のためにも古墳がない場所をお勧めします。
そんな訳で、平林古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、花見ができる古墳を紹介します。
平林古墳詳細
古墳名 | 平林古墳 |
住所 | 奈良県葛城市兵家1373−2 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 62m |
高さ | 8.8m |
築造時期 | 6世紀後半 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
被葬者 | 不明 |
県の指定文化財 | 1991年3月8日 |
参考資料 | 案内板 |