はい、今回は兵庫県宝塚市にある「安倉高塚古墳(あくらたかつかこふん)」を紹介します。住宅地にある古墳は、大なり小なり削られるケースをよく見かけます。
しかしこの安倉高塚古墳は、真っ二つにブッた切られた上に断面を擁壁で固める魔改造が施されているんです。この古墳を前にして、どこまで擁壁魔改造に耐えることができるのか?そんな訳で、兵庫県宝塚市にある「安倉高塚古墳」へ行ってきました。
孫権の時代に作られた銅鏡が出土
この安倉高塚古墳の出土品の内、1枚の銅鏡が県の重要文化財に指定されています。その銅鏡とは「赤烏七年」の銘が打たれた神獣鏡。赤烏とは、三国志の「呉」で使われていた年号で「赤烏七年」は西暦に換算すると244年になります。つまり、呉で作られた銅鏡が古墳に収められていたのです。
244年の呉は、孫権の後継者争いで揉めた「二宮事件(にきゅうじけん)」の真っ只中でした。呉の名将「陸遜」もこの事件に巻き込まれたあげく、244年に憤死しています。
そんなトラブル真っ最中の244年に作られた銅鏡が、なぜ4世紀前半の古墳に埋葬されていたかはわかりません。ただ、銅鏡が作られた6年前の238年に卑弥呼は魏に使からを派遣し、皇帝である曹叡から金印と銅鏡100枚を与えられています。
魏と対立する呉と関係を持つことから、安倉高塚古墳の被葬者は邪馬台国の後継国家と対立する勢力だったのかもしれません。
擁壁魔改造古墳に震えよ!
そんな訳で、兵庫県宝塚市にやってきました。家族には「手塚治虫記念館に行くぞ!」という口実で来ましたが、本命は安倉高塚古墳です。
家族が古墳近くのブックオフで買い物する間に、古墳に向かいます。一応、家族も誘ってみましたが全力で拒否。そんな訳で、一人で古墳へ向かうことに。ホントにこんな所に古墳なんてあるの?というぐらい住宅密集地ですが、魔改造されるような古墳はだいたいこんな所にあります。細い路地を少し歩くと、安倉高塚古墳が現れました。
全力で壁ですね!
安倉高塚古墳は、4世紀後半に築造された古墳で、直径17m、高さ2.7mの円墳。埋葬施設は竪穴式石室ですが、石室は平削され1/5しか残されていません。
円墳といっても道路建設のために南半分はブッた切られて擁壁で固められています。しかも現在の盛り土も後から盛られた土だとか…つまりほぼ原型を留めていないわけですね…
ちなみにこの周辺には「安倉七つ塚」と呼ばれる複数の古墳があったそうですが、現在は安倉高塚古墳しか残っていません。さて、安倉高塚古墳をじっくり見ていきましょう。じっくりといっても5分もあれば見終わるのですが。
一番気になって仕方がないのは、この小窓。古墳史上、小窓を搭載した古墳なんて存在したでしょうか?そして開けたら何が入っているのでしょうか?気になって仕方ありません。被葬者もビックリの仕様です。
そして小窓の脇には、「紀元壹千年頃 古墳」という文字が彫られています。恐らくこれは、神武天皇即位日を基準とした「皇紀」のことでしょう。紀元1000年は、西暦に換算すると320年にあたるので、4世紀前半ということですね。
それにしても壁です。
案内板がなければ、謎の小窓を搭載した壁にしか見えません。
古墳の前の道ですが、住宅地ということもあり結構人の往来が多いんです。あまり長く謎の壁を激写していると不審者率が高まるので、とりあえず家族が待つブックオフに帰りました。
まとめ
今回は、魔改造をほどこされた兵庫県宝塚市の「安倉高塚古墳」を紹介しました。もはや古墳なのか何なのか分からないこの古墳を前に、ただ立ち尽くすしかありません。この魔改造に興奮しだしたら末期状態なので、ぜひその魔改造を体感してもらいたいところです。
という訳で、安倉高塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、擁壁魔改造古墳を紹介します。
安倉高塚古墳詳細
古墳名 | 安倉高塚古墳 |
別名 | 鳥島古墳 |
住所 | 兵庫県宝塚市安倉南1丁目4−29 |
築造時期 | 4世紀後半 |
円墳 | |
直径 | 17m |
高さ | 2.7m |
埋葬施設 | 竪穴式石室 |
指定文化財 | 宝塚市の史跡:1970年11月3日 |
被葬者 | 不明 |
案内板
宝塚市指定史跡
安倉高塚古墳
指定日 昭和45年11月3日
武庫川の河岸段丘上に築かれた直径17mの円墳で、古墳時代前期(4世紀後半)に作られたものである。昭和12年の道路工事に際し、発掘調査が行われた。道路工事のため、墳丘は半壊したが、内部には石積みの竪穴式石室があり、石室内には割竹形木棺が安置されていた。出土物には内行花文鏡、神獣鏡の2面と管玉・小玉等の装飾類・鉄製品等があり、これらは兵庫県指定重要文化財となっており、兵庫県立歴史博物館が所有している。出土遺物の神獣鏡には赤烏七年(244)の年号がみられる。赤烏の年号は中国の呉の国のもので、わが国では山梨県の鳥居原狐塚古墳からも赤烏元年(238)銘の鏡が出土している。卑弥呼が魏へ使いを送ったとされる景初三年(239)の時代に近く、また3世紀代に中国で制作されたとみられる鏡の出土から、その入手経路や副葬された事情等を知るうえで、また我が国の古代史を解明する上で欠くことのできない貴重な古墳である。