はい、今回は奈良県高取町にある「岡宮天皇陵(おかみやてんのうりょう)」を紹介します。岡宮天皇という聞き慣れない天皇ですが、天武天皇と持統天皇の息子である「草壁皇子」を指します。早世したため皇位につくことはありませんでしたが、後年に淳仁天皇から岡宮天皇の称号が贈られました。
考古学的には、草壁皇子の墓は別の場所ではないかと考えられており、こちらの岡宮天皇陵については疑問を持たれています。そんな訳で、天皇ではないけれども天皇陵に祀られてる上、本人の墓ではない可能性が高いという「岡宮天皇陵」へ行ってきました。
草壁皇子とは
草壁皇子は、父に天武天皇、母に鸕野讚良(後の持統天皇)を持ちます。天武天皇が壬申の乱で弘文天皇(大友皇子)を倒し皇位に就いたため、皇位は天武天皇の系統へ移りました。
草壁皇子は第二皇子でしたが、長男の高市皇子は母親の身分が低かったため、天武天皇の後は草壁皇子か、その弟の大津皇子と目されていました。大津皇子の母は、持統天皇の姉である大田皇女でしたが、早くに亡くなっていたため、大津皇子には後ろ盾がありませんでした。

686年9月に天武天皇が崩御。その翌月10月に、天智天皇の息子である川島皇子が大津皇子が謀反を企てていると密告します。それを受けて大津皇子は、自害に追い込まれる事件が起こりました。この事件は、草壁皇子に皇位を継がせたい鸕野讚良の意向が強かったのではと考えられています。
強力なライバルが消えたことにより、憂い無く皇位に就くかに見えた草壁皇子ですが、なぜか2年ほど空位の時期が続きます。その後、草壁皇子は皇位に就くことなく689年4月に病気により崩御。息子の軽皇子(後の文武天皇)はまだ幼かったため、鸕野讚良が持統天皇として即位することとなります。
本当に草壁皇子の墓なのか?
実際に天皇に就いていない草壁皇子ですが「岡宮天皇」という諡(おくりな)が付けられています。これは758年に淳仁天皇から岡宮御宇天皇の称号が贈られたことが由来します。
平安時代に編さんされた「延喜式」によると、草壁皇子は大和国高市郡にある「真弓丘陵」に葬られたと記されています。この真弓丘陵が、佐田地区の丘陵地とのこと。
続日本紀によると、765年に称徳天皇が紀伊国へ行幸の際に、真弓丘陵に関する記述があります。記述によると、称徳天皇は真弓丘陵を過ぎるにあたり、付き添う百官に対して下馬を命じたと記されています。他にも、万葉集には草壁皇子の死を悼むいくつかの歌があり、「真弓の丘」の地名がみられます。このような点から、草壁皇子が真弓丘陵に葬られたことは間違いないようです。
ただ真弓丘陵を、どの古墳に充てるかについては長らく定まっていませんでした。江戸時代に記された「聖跡図志」によると、疑問はあるものの「岩屋山古墳(明日香村)」を草壁皇子の墓ではないかと記されています。岩屋古墳は切石を用いた精巧な石室を持つ古墳ですが、時代的には草壁皇子の死よりも半世紀ほど早く築造されています。

他に「高松塚古墳(明日香村)」や「マルコ山古墳(高取町)」が草壁皇子の墓として候補に挙げられています。ただ、どちらの古墳も立地的に真弓丘陵に含まれているとは言えず、現在ではほぼ否定されています。

どのような経緯かは不明ですが、現在は佐田地区の少し南にある円墳が、岡宮天皇陵に比定されています。ただ古墳に関する情報が全くなく、本当に草壁皇子の墓であるかは疑問が持たれています。
こうした中、束明神古墳が草壁皇子の墓として有力な候補の一つとされています。束明神古墳は、岡宮天皇陵の少し北にある佐田地区の丘陵地に存在。立地的にも真弓丘陵にあり、築造時期も7世紀後半ということで、草壁皇子が崩御した時期とも合います。

墳形は、天皇陵として用いられる八角墳であり、切石を用いた精巧な横口式石槨を有しています。立地、時期、古墳の格式から考えると、束明神古墳が最も草壁皇子の墓として有力視されています。
岡宮天皇陵へ
岡宮天皇陵のある、奈良県高取町に来ています。高取町は明日香村の隣に位置するということで、比較的古墳の多い町。そんな訳で、高取町リベルテホールの駐車場に車を停めさせていただき、岡宮天皇陵へ向かいます。
岡宮天皇陵は佐田集落の丘陵地先端に存在。天皇陵への道は整備されており、遥拝所へは簡単に行くことができます。

遥拝所へ行く途中に分かれ道があり、右側は素盞鳴命神社へ続いています。

こちらが素盞鳴命神社の拝殿。詳しい由緒は分かりませんが、神社名からスサノオを祀っていると思われます。本来は牛頭天王を祀っていたと思われますが、明治政府の神仏分離政策により牛頭天王の崇拝が禁じられたため、スサノオを祀っているのではないでしょうか。

拝殿の西側から、岡宮天皇陵の円墳らしき盛り土が見えます。元々はこの場所に素盞鳴命神社が建てられていたとのこと。江戸時代にこの場所が岡宮天皇陵に比定されたことにより、現在の場所に移転したそうです。そのため、この円墳が元から存在したのか、陵墓整備により盛り土されたものなのかは分かりません。

そんな訳で、謎の盛り土を遠目にみることしかできないので、来た道を戻り遥拝所に向かいます。

こちらが、岡宮天皇陵の遥拝所。遥拝所の正面は一段下がっているため、参拝は側面からのみ。

変な角度から参拝する理由は不明ですが、古墳の石室の多くが南側に向けて開口しています。これは風水の思想が影響しているとのこと。天皇陵にも当てはめているのかは分かりませんが、遥拝所もそれを意識しているのかもしれません。

ちょうど冬場で一段下がった場所があまり茂っていなかったので、降りて正面から見てみました。だからと言って鳥居以外になにが見えるわけでもありませんが。

天皇陵としても実際に草壁皇子の墓である可能性は低く、古墳としても見所は特にありません。誰が埋葬されているのかわかりませんが、とりあえず参拝をして帰ることにしました。
まとめ

今回は、奈良県高取町にある「岡宮天皇陵」を紹介しました。草壁皇子の墓に比定されている古墳ですが、実際に草壁皇子の墓であるかについては疑問があるようです。岡宮天皇陵だけ見に行く人はいないでしょうが、束明神古墳に寄ったついでに行くのがいいかもしれません。
そんな訳で、岡宮天皇陵の紹介はこの辺で。次回はまた別の、皇子の墓と思わせて違うらしい古墳を紹介します。
岡宮天皇陵詳細
古墳名 | なし |
宮内庁名 | 岡宮天皇真弓陵 |
住所 | 奈良県高市郡高取町 |
墳形 | 円墳 |
全長 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 不明 |
被葬者 | 宮内庁:草壁皇子 |
埋葬施設 | 不明 |
指定文化財 | なし |
出土物 | 不明 |
参考資料 | ・天皇陵総覧 |