はい、今回は大阪府和泉市にある「和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)」を紹介します。和泉黄金塚古墳は、和泉市最大規模古墳で、国の史跡に登録された古墳として知られています。そんな和泉黄金塚古墳からは、西暦239年(景初3年)の銘が刻まれた銅鏡が出土しています。この年は、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送った翌年にあたります。
そんな和泉市最大で指定文化財にもなり、かつ貴重な銅鏡が出土した古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。。そんな訳で、大阪府和泉市にある和泉黄金塚古墳を見に行ってきました。
和泉黄金塚古墳とは
和泉黄金塚古墳のある、大阪府和泉市に来ています。「和泉」と書いて「いずみ」と読む地味ながら難読地名で、古くから泉が湧き出る地だったとのこと。そのため地名は「泉」だったそうですが、国名を2文字に統一すると決められたため、泉も和泉になったそうです。
ちなみに「おうごんづか」と読むと思い込んでいましたが「こがねづか」と読むようです。お隣の岸和田市には「小金塚古墳(こがねづかこふん)」という名前の古墳もあるため、地名をつけて「和泉黄金塚古墳」と呼んでいるのかもしれません。

そんな訳で、和泉黄金塚古墳から少し離れたコインパーキングに車を停めて、古墳に向かいます。和泉黄金塚古墳は、信太丘陵の先端に築かれた古墳。西側には平野が広がる見渡しの良い場所に築造されています。

墳丘へのルートは北側の細い道から進みます。本当にこの道でいいのかと不安になりながら進んでいくと行き止まりになり、丘陵側に墳丘に続く道が現れます。

更に進んでいくと、人が通る所だけが刈られた草のトンネルが出現。トトロに会えそうな道ですが、周りに全く人もおらず不気味な雰囲気が漂っています。

なんとなく整備されているのか、道には土嚢が敷かれ草も刈られていました。ただ冬場でこの茂みっぷりなので、夏場に来るのは難しいかもしれません。

謎の草のトンネルを抜けた先に、和泉黄金塚古墳が横たわっています。和泉黄金塚古墳は4世紀後半頃に築造された、全長94mの前方後円墳。明治時代以降、この一帯は信太山陸軍演習場の一部となり、塹壕が掘られるなどの改変を受けています。古墳の周囲には堀が存在したようですが、築造当初より空堀だったと考えられています。

埋葬施設は、後円部に3基の埋葬施設が見つかっています。すべて粘土槨で、それぞれにコウヤマキ製の木棺が納められていました。東槨と西槨からは武具が多数出土していることから、被葬者は男性と考えられています。一方、中央槨からは鏡や玉が多数出土していることから、被葬者は女性と考えられています。
中央槨 | 粘土槨 | 竹割形木棺 |
東槨 | 粘土槨 | 箱形木棺 |
西槨 | 粘土槨 | 箱形木棺 |
多くの副葬品の中で、特に注目されているのが中央槨から出土した画文帯四神四獣鏡です。この銅鏡には「景初3年(西暦239年)」の銘が刻まれていました。魏志倭人伝によると、景初2年(西暦238年)に邪馬台国の卑弥呼が中国の魏に使者を送り「親魏倭王」に任じられています。その際、銅鏡100枚を含む莫大な品が下賜されています。

卑弥呼が魏に使者を派遣した年と1年違いですが、和泉黄金塚古墳から出土した銅鏡は、卑弥呼が魏から賜ったものと関係あるのではないかともいわれています。ただ、この銅鏡の銘は3世紀中頃ですが、和泉黄金塚古墳が築造されたのは4世紀後半とされています。100年以上の開きがありることから、銅鏡は古墳築造以前から受け継がれてきた可能性も考えられます。仮に卑弥呼が賜った銅鏡だとすれば、和泉黄金塚古墳との関係が気になるところです。
そんな珍しい銅鏡が出土した和泉黄金塚古墳ですが、残念ながら中に入ることはできません。工事現場に使われるカラフルな柵により入口が塞がれて、遠目に墳丘を見つめるのみ。国の史跡に指定されているということで、入口に案内板が設置されているのがせめてもの救いかもしれません。

墳丘を見ると、2ヵ所に石碑が建てられています。携帯のZOOM写真で確認してみると、一つは「黄金塚」、もう一つは「黄金塚古墳」と刻まれているようです。なぜ似た内容の石碑を2つも建てているのか、謎が深まります。

そんな訳で、荒れ果てた雰囲気の丘陵地で一人寂しく中に入れない古墳を激写しているのも悲しくなってきたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府和泉市にある「和泉黄金塚古墳」を紹介しました。和泉市最大規模の古墳で国の史跡という古墳ですが、茂みだらけの中に入られない古墳でした。卑弥呼が賜ったかもしれない銅鏡が出土したということで、非常に興味深い古墳でありますが、いつか整備され中に入られるときが来るのを祈るばかりです。
という訳で、和泉黄金塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、卑弥呼が賜った銅鏡が出土したかもしれない古墳を紹介します。
和泉黄金塚古墳詳細
古墳名 | 和泉黄金塚古墳 |
住所 | 大阪府和泉市上代町 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 94m |
高さ | 9m |
築造時期 | 4世紀後半頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 粘土槨 |
指定文化財 | 国の史跡:1972年5月30日 |
出土物 | 中央槨:三角縁二神二獣鏡、勾玉、棗玉、管玉、石釧、車輪石、画文帯四神四獣鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧、鉄鎌 東槨:三角縁龍虎鏡、画文帯四神四獣鏡、甲、冑、勾玉、棗玉、管玉、鍬形石、水晶製大型切子玉、鉄槍、鉄鉾、鉄鏃 西槨:短甲、鉄刀、打製石鏃、画文帯神獣鏡 |
参考資料 | ・案内板 ・百舌鳥古墳群をあるく |
案内板
国指定史跡
和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)
平成二十年三月二十八日指定
平成二十四年一月二十四日追加指定
和泉黄金塚古墳は、信太山丘陵の北西部突端に4世紀末ごろに築かれた、全長94mの前方後円墳です。後に高名な考古学者となる森浩一氏が旧制中学生の時に、墳丘に掘られた塹壕から、遺物を発見したことが契機となり、終戦まもなく発掘調査が実施されました。
後円部頂部で3基の埋葬施設が並んでみつかり、中央槨からは、卑弥呼が魏に使いを送った年である「景初3(西暦239)年」の銘をもつ画文帯神獣鏡が日本ではじめて出土し、全国的に知られるようになりました。
その後50年後、和泉市教育委員会により発掘調査が実施され、くびれ部から形象埴輪が出土したほか、二段築成であること、古墳の周囲が盾形に区画されていたことなどが明らかになり、平成20年3月28日に国の史跡に指定されました。