はい、今回は奈良県香芝市にある「武烈天皇陵」を紹介します。武烈天皇は、名前のインパクトが強いので聞いたことのある方もいるかもしれません。しかしこちらの天皇「実在しているか少し怪しいうえ、陵墓もただの丘かもしれない」という方なんです。
これには、武烈天皇から継体天皇への継承に関係するようです。存在も古墳も怪しいとはいったいどういう事なのか?古墳に行ったところで何が分かるわけでもないですが、行ってみたいのでとりあえず行ってきました。
武烈天皇の死により仁徳天皇系は断絶
武烈天皇については、古事記と日本書紀により内容が異なります。日本書紀では「妊婦の腹を裂く」「人を木に登らせて矢で射る」など、残忍な人物として記されています。
一方の古事記にはそのうな記載はなく、都と葬られた墓の場所程度の記載しかありません。日本書紀で残虐な人物として記された理由として、武烈天皇の後継問題が影響しているとの説があります。
武烈天皇は子をもうけないまま崩御したため、後継者選びは難航しました。しかも4代前の雄略天皇が有力皇族の多くを粛清していたため、仁徳天皇系の皇族は残っていませんでした。
そこで有力豪族の、大伴金村、物部麁鹿火、巨勢男人らは、仲哀天皇の5世の孫である倭彦王に推戴を求めるも、倭彦王は拒否。次の候補として応神天皇の5世孫の男大迹王を迎え入れ「継体天皇」として即位します。
これを現代に当てはめると、次の天皇に孝明天皇の子孫を迎え入れるほど遠い血縁。しかし通常であれば、皇位に就くことの無かった人物が皇位に就いたことで、かなり軋轢もあったようです。
継体天皇の地盤は越前国(現:福井県)にありましたが、最終的に大和国に入るまで20年の歳月がかかっています。この年月は、継体天皇に反対する豪族を抑えるために費やされたと考えられます。一説によると継体天皇は、衰退した仁徳天皇系の皇室に対して武力で皇位を奪ったとの説もあります。
後世に正統な皇位継承者であることを示すため、武烈天皇は悪逆非道であれば、継体天皇の正統性を説明しやすくなります。一説には、もともと武烈天皇なる天皇は存在せず、継体天皇の正統性を示すために作られた架空の天皇との説もあります。
日本書紀における武烈天皇のエピソードは、どこか使い回された話が多く存在します。また古事記においては前後の天皇に比べて極端に事象が少ないのも不可解なところです。
実在の有無は不明ですが、後世に武烈天皇という人物は大きく歪められたのかもしれません。
THE 山でした
はい、武烈天皇陵のある奈良県香芝市にきております。今回はたまたま近くを通ったので、家族に頼み込んで寄ってもらいました。またよく分からない丘を見せられるのかと、家族はウンザリ。
この時代の天皇陵は基本的に古墳なので、円墳、方墳、前方後円墳などの形があります。宮内庁の分類でも「円丘」「方丘」「前方後円」などに分類されています。しかし宮内庁における武烈天皇陵の分類は「山形」とされ具体的な形については触れられていません。
古墳は上から見ると形がよくわかりますが、武烈天皇陵は山にしか見えませんそんな訳で、武烈天皇陵は、古墳ではなくただの「山」なのではないかと密かにささやかれています。
ただでさえ激写スポットの少ない天皇陵なのに、ただの山なんてどこを激写したらいいのか…
とりあえず気を取り直して武烈天皇陵に向かいます。田んぼの間にある参道を通り過ぎ、遥拝所へ。正面に見えている巨大な山が武烈天皇陵です。どこからどこまでが陵墓なのか見当もつきません。
こちらが武烈天皇陵の正面。町中や山中の天皇陵はだいたい窮屈ですが、武烈天皇陵は珍しく広々としています。開放感がある天皇陵は、初めて。
こちらが遥拝所。完全テンプレートなので、とくに感動はありません。後ろの茂みが武烈天皇陵です。もう茂みしか勝たん。
ちなみに家に帰り撮影した写真を見直してみたら、同じ風景の写真が10枚ぐらいありました。よっぽど撮る所がなかったのでしょう。
まとめ
今回は、奈良県香芝市にある「武烈天皇陵」を紹介しました。天皇も謎なら古墳も謎という、謎祭りな御陵でした。しかも行ってみたら山があるだけという、まさに古墳ファン殺しの素敵な御陵です。
皆さんもぜひ訪れて「山ですね」とつぶやいて下さい。それではまた別の山か古墳か分からない古墳でお会いしましょう。
武烈天皇陵詳細
古墳名 | 武烈天皇陵 |
宮内庁名 | 傍丘磐坏丘北陵 |
住所 | 奈良県香芝市今泉 |
墳形 | 不明 |
築造時期 | 不明 |
全長 | 不明 |
高さ | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
被葬者 | 武烈天皇 |
参考資料 | なし |