はい、今回は奈良県高取町にある「束明神古墳(つかみょうじんこふん)」を紹介します。一見するとただの盛り土にしか見えないこの場所、実は草壁皇子の墓と考えられています。
現在、宮内庁が草壁皇子の墓と定めているのは、同じ高取町にある別の円墳なんですが、なぜ束明神古墳がその候補に挙がっているのか。その真相を探るべく、奈良県高取町にある「束明神古墳」へ行ってきました。
草壁皇子とは
草壁皇子は、天武天皇の子であり、文武天皇の父にあたる皇族。天武天皇の息子たちの中でも、彼と三男の大津皇子は、次期皇位の有力候補と見られていました。
草壁皇子の母は、天智天皇の娘・鸕野讚良(うらのささら)、つまり後の持統天皇です。一方、大津皇子の母も同じく天智天皇の娘である大田皇女。どちらの皇子も高貴な母を持っていたものの、大田皇女は早くに亡くなり、大津皇子は後ろ盾を失っていました。

686年9月、天武天皇が崩御します。その翌月、10月2日に大津皇子は謀反の疑いで捕らえられ、わずか1日後の3日には自害に追い込まれてしまいました。本当に謀反を企てたのかは定かではありませんが、あまりにも迅速な展開には、鸕野讚良の強い意向が働いたと見る向きもあります。

その後、草壁皇子はすぐには皇位に就かず、2年以上も空位が続きました。そして689年4月、ついに皇位を継ぐことなく、27歳の若さで亡くなってしまいます。息子の軽皇子(後の文武天皇)はまだ幼かったため、代わりに鸕野讚良、つまり持統天皇が皇位を引き継ぐことになったのです。
延喜式によると、草壁皇子は「真弓丘陵」に葬られたと記されています。真弓丘陵は、現在の高取町佐田地区にある丘陵地とのこと。
皇位に就くことはなかったものの、草壁皇子には「岡宮天皇」という諡(おくりな)が付けられています。これは758年に淳仁天皇から、岡宮御宇天皇の称号が贈られたことが由来。そのため、現在宮内庁が比定する草壁皇子の墓は「岡宮天皇真弓丘陵」と称しています。
束明神古墳へ
束明神古墳のある、奈良県高取町に来ています。高取町の隣は、古墳時代に都が置かれた明日香村。そのような立地のためか、高取町には与楽古墳群をはじめとした、多数の古墳が存在します。

高取町北部の佐田地区には、かつて「真弓丘陵」と呼ばれた丘が存在します。平安時代に編纂された延喜式によると、この真弓丘陵に草壁皇子が葬られたと記録されています。
ただ、どの古墳が草壁皇子の墓なのかについては紆余曲折がありました。現在は宮内庁により、佐田地区の少し南にある円墳が草壁皇子の墓(岡宮天皇真弓丘陵)に比定されています。ただ、束明神古墳の発掘調査により、現在は束明神古墳が草壁皇子の墓との説が有力です。

そんなわけで、真の草壁皇子の墓とされる束明神古墳を目指します。場所は佐田集落の西側、丘陵地の一角にあります。民家しかないような道をどんどん進んでいくと、少し不安が募りますが、幸い案内板があってホッとしました。

更にどこに続いているのか分からない道を進むと、恐ろしく長い階段が出現。まあまあ歩いた後に、トドメを刺す角度の階段で倒れそうになります。

運動不足の体にはキツい石段を上ると、春日神社にたどり着きます。石碑の側面には「敬神愛国」との文字が刻まれていることから、戦前に建てられた石碑なのかもしれません。

春日神社の創建の由緒については不明ですが、神社名から「天津児屋根命(あめのこやねのみこと)」を祀っていると思われます。

束明神古墳は、春日神社の境内に存在。古墳名は、墳丘に置かれた灯篭に「束明神」と刻まれているのが由来。

明神は春日神社の神様を指すものと思われます。ただ「束」は元々は「塚」だったと思われますが、なぜ「束」なのかは不明。他にも「佐田束明神古墳」「神明塚」「塚の明神」などの別名を持ち、どれも神社に由来した名前となっています。

束明神古墳は、7世紀末に築造された対角長30mの八角墳。尾根を切り開いて平らな土地を作り、版築により墳丘を築き上げています。八角墳は、終末期の皇族クラスに採用される墳形。奈良県においては、天武・持統合葬陵の「野口王墓古墳」、文武天皇の真陵とされる「中尾山古墳」、斉明天皇の真陵とされる「牽牛子塚古墳」などに採用されています。

埋葬施設は、南側に開口する横口式石槨。加工しやすい凝灰岩の切石を精巧に組み合わせた、家形の構造を有しています。ただこの横口式石槨は、明治時代に村民により一部が破壊されたとのこと。これは束明神古墳が草壁皇子の墓とされる可能性が浮上し、宮内庁により立ち退きを命じられることを恐れたために行われたといわれています。現物は埋め戻されて見ることができませんが、再現された石槨が「橿原考古学研究所附属博物館」に展示されています。

石槨の内部はすでに盗掘を受けていましたが、鉄釘・漆膜片・棺金具が検出されており、漆塗木棺が納められていたと考えられています。その他にも、青年期から壮年期の男性と思われる「歯」が見つかっています。歯の情報からも、被葬者が草壁皇子であることに違和感はありません。

貴重な石槨だけに、博物館だけでなく、束明神古墳にもレプリカや写真があればよいのですが、残念ながら案内板しかありません。八角墳の名残もなく謎の盛り土があるだけですが、謎の盛り土好きなので問題ありません。

ちなみに墳丘の手前には、遥拝所の石碑と灯篭が置かれています。灯篭には「太神宮」と彫られているので、伊勢神宮への遥拝所なのかもしれません。

ちなみに墳丘にも上れるみたいなので上ってみましたが、草が茂っている以外に何もありませんでした。

そんな訳で、誰もいない神社で謎の盛り土に上っていても仕方がないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、奈良県高取町にある「束明神古墳」を紹介しました。築造時期、墳形、遺物などから、草壁皇子の墓の可能性が高いのではないでしょうか。ただ、実際に行ってみると、見事なほど盛り土しかありません。貴重な史跡なので、もう少し現地での見所が欲しいところです。
そんな訳で、束明神古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、高貴な人物の墓かもしれない古墳を紹介します。
束明神古墳詳細
古墳名 | 束明神古墳 |
別名 | 佐田束明神古墳、神明塚、塚の明神 |
住所 | 奈良県高市郡高取町佐田768 |
墳形 | 八角墳 |
一辺 | 30m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 7世紀末 |
被葬者 | 推定:草壁皇子 |
埋葬施設 | 横口式石槨 |
指定文化財 | なし |
出土物 | 円形の棺金具、鉄釘、須恵器、土師器、歯 |
参考資料 | ・案内板 ・高取埋蔵文化財(埋文)散策マップ ・大和の古墳を歩く |
案内板
束明神古墳
この古墳は明治26年の野淵竜潜による「大和国古墳墓取扱書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われていなかった。橿原考古学研究所では高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。こうした認識にたち、昭和53年に外形の実測調査を実施しこれをもとに各方面からの検討を加え、昭和59年4月16日から発掘調査を行った。調査は由良大和古代文化研究会の助成をうけて、奈良県橿原考古学研究所が高取町教育委員会と共同で実施した。
古墳は尾根の南側を直径約60mの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模等についてもこれまで調査されて終末期古墳に見られたなかった大規模なものである。石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃と考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。
草壁皇子(天武天皇と持統天皇のあいだに生まれた皇子)の墓である可能性が大きといわれている。
高取町教育委員会