はい、今回は大阪市平野区にある「坂上広野麿の墓」を紹介します。誰やねん的な人物ですが、平安時代に活躍した「坂上田村麿」の次男です。
坂上田村麿は教科書にも出てくる有名人ですが「その次男て誰?」という感じです。私も知らない人物でしたが、実は坂上広野麿が大阪市「平野区」の由来となった人物らしいとのこと。そんな訳で、よく知らない坂上広野麿の墓に行ってみました。
坂上広野麿は平野という地名の由来らしい
平野区は、難読地名が多い場所で「喜連(きれ)」「瓜破(うりわり)」「杭全(くまた)」などが知られています。今回訪問する坂上広野麻呂の墓は、平野区の中央部付近に存在します。
坂上広野麿の父親は、坂上田村麿。征夷大将軍として蝦夷地を平定し、阿弖流為(アテルイ)を捕らえた人物として知られています。
坂上氏は、渡来系豪族である「東漢氏(やまとのあやうじ)」の流れをくむ一族で、主に軍事に司る役職についていました。息子の坂上広野麿も武芸に秀でたようで、810年に起こった「薬子の変」において父と共に行動し、乱の拡大を防いだといわれています。ちなみに最近の教科書では、薬子の変とは言わずに「平城太上天皇の変」と書かれているとのこと。
892年に編纂された「類聚国史」に、坂上広野麿の人となりが残されています。
広野麿は弟の浄野とともに武勇をもってきこえ、田村麿の息子にふさわしい武人であった。しかし武人としてのほかはこれといいった才能はなく、直言直行の気質で人と折り合わず、飲酒が過ぎる欠点があった。四十代でしんだのはそのせいだろう
よく読むと、軽くdisられていました。
これまでの功績により坂上広野麿は、朝廷より杭全庄(現在の平野区周辺)を賜りこの地に永住。その後、陸奥守などを歴任し、右兵衛督・従三位に昇進。828年3月9日にこの地で没します。
平野の地名は広野麿が領有したことから「広野庄」となり、それがなまって「平野」となったと伝わっています。ただ、この説には根拠がないので、あくまで多分そうじゃないかなレベルの話とのこと。
アライグマに導かれ氏寺と住居跡へ
坂上広野麿の墓がある、大阪市平野区にきいます。平野には墓の他にも坂上広野麿ゆかりの史跡がいくつか残されているので、寄ってみることに。
道中にあるアライグマの表札の導きにより、坂上氏の氏寺である長寶寺へ向かいます。
平野駅から徒歩10分ほど歩いた場所に、坂上田村麿が創建したと伝わる「長寶寺(ちょうほうじ)」が存在します。このお寺は坂上広野麿の妹である「坂上春子」が、夫である桓武天皇の菩提を弔った寺とのこと。
また坂上広野麿の住居が長寶寺内にあったとも伝わっており、坂上氏にとって重要な寺だったことがわかります。長寶寺には、坂上広野麻呂が自ら彫ったという坂上田村麿像が安置されていたようですが、現在は近くにある「杭全神社」に移されています。
坂上氏は、地元の人々から「平野殿」と呼ばれ以後も平野を治め続けました。傍系が広がり、坂上家七名家が平野を治めるようになると、本家は長寶寺に移ったとのこと。長寶寺は、坂上家の氏寺として明治の初期まで坂上家出身の女性が継承してきたようです。
住居跡の石碑がお寺の反対側の道に建っているそうなので、見に行ってみることに。しばらく歩くと昭和の雰囲気全開のアパートの前に、石碑らしきものが立っていました。
どうやら、これのようです。完全に周囲の雰囲気とは浮いています。
石碑の足元には猫除けと思われるペットボトルがいくつか置かれており、シュールさアップ。
寺に住居があったのなら境内に石碑を建てさせてもらえばよかったと思うのですが、ダメだったのでしょうか。
まさかの花壇
アパートの前にある謎の住居跡石碑を後に、本命の墓へ。坂上広野麿の墓は、長寶寺から15分ほど離れた「坂上公園」という、何のヒネリもない名前の公園に存在します。
平野の名付け親なので「広野麿公園」とかのほうがいいのではないでしょうか。とても言いにくいので却下ですね。
平野の生みの親の公園には人っ子一人もいませんでした。ただ、日当たりもよく住宅地にあるということでそんなに寂しい感じはしません。
もともとこの場所には、坂上広野麿が建立した「善光山修楽寺」が存在しました。父の坂上田村麿の菩提所としていましたが、室町時代に廃寺となり墳墓だけが残ったとのこと。坂上広野麿の墓は、そんな公園の片隅に存在しました。
花壇ですよね?
花壇の横には「坂上広野麿墳墓」と彫られた石碑が建てられているので、これが墓で間違いないようです。
さらに案内板まで設置されており、とても訪問者に優しい墓と言えます。ただ墓は花壇ですが。
レンガで彩られた土台の上に、つつじの花が植えられています。もう100%花壇で間違いありません。
中心部はコンクリートで固められ、謎の石が中心部に設置されています。このよく分からない感がとても素敵で、感動すら覚えました。つつじはキレイに刈り込まれており、平野区の心意気を感じさせます。
ちなみに「大阪史蹟辞典」の解説も同じような感想が書かれていました。
余慶橋の東北に公園あり、中の小さな円墳がそれである。円墳といってもレンガで円形を造り、つつじを植え、石とコンクリートで上部を飾り、格好のいい自然石を一つのっけたものである。
やや投げやりな解説がなされていました。その気持ちはよくわかります。とりあえず、謎の花壇を激写し続けても仕方ないので帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪市平野区にある「坂上広野麿の墓」を紹介しました。墳墓と称するも実は花壇という衝撃のお墓です。石碑と案内板がなければ、お墓と気づく人はまずいないのではないでしょうか。過去に見てきた墳墓の中でもかなりハイレベルなものでした。墓と思わせて実は花壇という墓を見たい人におススメのお墓といえます。
という訳で坂上広野麿の墓の紹介はこの辺で。次回はまた別の、花壇墳墓を紹介します。
坂上広野麿の墓詳細
墓名 | 坂上広野麿の墓 |
住所 | 大阪市平野区平野市町1丁目8 坂上公園内 |
築造時期 | 8世紀 |
被葬者 | 坂上広野麿 |
参考資料 | ・大阪史蹟辞典 ・歴史の散歩道(今里・平野郷コース) ・平野区うお~くらリ~ ・平野区史 ・案内板(坂上広野磨の墓) ・案内板(長寶寺) |
案内板(坂上広野磨の墓)
平安朝の初め(西暦八〇〇年頃)蝦夷攻略に武功を樹てた坂上田村磨の第二子広野磨が、朝廷より杭全庄を賜り、この地を領有した。広野磨は、嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任ぜられこの地に永住し、天長五年三月九日(八二八年)死没した。
坂上家は以来、子孫代々民部を名乗りこの地を領有し、人々から平野殿と呼ばれたが、地域の発達とともに子孫に傍系が広がり、のちに坂上家の七名家となった。
「平野」の地名の由来について、この広野磨が領有したことにより「広野庄」となり、後にそれがなまって「平野庄」となったといわれている
平野区役所