酒君塚古墳|鷹狩り発祥の地と魔改造古墳~大阪市東住吉区~

酒君塚古墳|鷹狩り発祥の地と魔改造古墳~大阪市東住吉区~

はい、今回は大阪市東住吉区にある「酒君塚古墳(さけきみづかこふん)」を紹介します。

酒君塚古墳は「酒君」の墓と伝わる古墳ですが、そもそも「酒君とは誰?」と思う方が世界で5人ぐらいいるかもしれません。酒君は、鷹狩りを日本に広めたキッカケともなった人物で、酒君塚古墳のあるこの地は鷹狩発祥の地としても知られています。

そんな訳で酒君さんがどんな人物なのかを触れながら、酒君塚古墳をブラブラと紹介したいと思います。

針中野という謎の駅名

酒君塚古墳のある大阪府東住吉区に来ております。最寄り駅は、近鉄南大阪線「針中野駅」という、少し変わった名前の駅になります。由来は、平安時代から一子相伝の技を伝え続けてきたという「中野鍼灸院」からきています。

酒君塚古墳

中野鍼灸院は鍼灸の高い技術が評判になり、周辺は大いに賑わっていました。またこの一帯の名士でもあり、近鉄南大阪線の開業に尽力したということで駅名に採用されたとのこと。今も中野家は存在しているようですが、鍼灸はしていないようです。

針中野駅から、駒川商店街を南に歩きながら酒君塚古墳のある「鷹合」地区に向かいます。最近の商店街は、ガレージが閉まった場所が多いのですが、この駒川商店街は異常なぐらい人で賑わっていました。ただ出口付近に近づくとどの商店街も同じなんですが、けっこうカオスな雰囲気が漂っています。

鷹合は鷹狩り発祥の地?

酒君塚古墳は大阪市東住吉区「鷹合」という地に存在します。この地名は、仁徳天皇の時代のある出来事がキッカケでつけられた地名として知られています。

仁徳天皇の時代、依網屯倉(松原市北部~住吉区一帯の天皇直轄地)において、阿弭古(あびこ)という人物が変わった鳥を捕獲して仁徳天皇に献上してきました。天皇は群臣にこれは何の鳥かと尋ね、それに答えたのが「酒君(さけのきみ)」でした。

酒君は百済の王族の一人でしたが、倭国の使者に無礼を働いたということで日本に連れてこられた人物。酒君は「この鳥は百済にたくさんおり、飼いならして人に従わせ、敏捷に飛んでもろもろの鳥を捕ります。百済の人は『倶知』と言います」と答えました。この倶知が、いわゆる「鷹」です。

天皇より鷹の養育を命ぜられた酒君は、飼いならして仁徳天皇に献上。百舌鳥で鷹狩りを行った仁徳天皇は、これを大変気に入り鷹の飼育や調教を行う「鷹甘部(たたかいべ)」を設置しました。

この鷹甘部の「たたかいべ」が時代をへて「たかあい」となったのが地名の由来のようです。

そんな鷹甘部にゆかりのある人物ということで、酒君塚古墳は酒君の墓と伝わっています。ただ実際の所、酒君塚古墳の被葬者が酒君であるかは不明です。

現在考えられている説としては、付近を流れる「駒川」「今川」水系を抑えた地元豪族の墓ではないかと考えられています。

酒君塚古墳の少し西を流れる駒川はかつて「高麗川」とも言われていたことから、この地を治めていた豪族は渡来系であったのかもしれません。そういう意味では、酒君の墓ではないにしても百済系の豪族が治めていた可能性はありそうです。

安定の公園魔改造古墳

鷹狩りネタを挟んでいる間に、酒君塚古墳近くまでやってきました。酒君塚古墳は公園内にある・・・というよりも古墳が公園になっています。どちらにしても、保存状態はあまり期待できないでしょう。

酒君塚古墳

酒君塚古墳は、出土した円筒埴輪の種類から4世紀末に築造された古墳ということが分かっています。昔から墳丘は大きく削られており「平塚」と呼ばれていました。

そのため、元々どのような姿をしていた古墳かは分かっていません。ただ江戸時代に何故か土を盛って古墳ぽくした結果、現在の姿になっています。

酒君塚古墳

かつては酒君塚古墳周辺にもいくつか古墳があり「田辺古墳群」と呼ばれていました。残念ながら酒君塚古墳以外はすべて消滅してしまい、東住吉区において酒君古墳が唯一現存する古墳となっています。

公園名はズバリ「酒君塚公園」という1mmのヒネリもない素敵なネーミングです。いや、ヒネった名前を考えろといわれても困りますが。

酒君塚古墳

公園は広場と遊具が設置されており、子供たちが楽しそうに遊んでいます。あまり子供が沢山いると、古墳激写の難易度がカチ上がるのでほどほどにしていただきたい。

酒君塚古墳

どこからどの辺が古墳なのかよくわかりませんが、盛り上がったところが古墳と思われます。墳丘を見ると大きなスベリ台が設置されていました。今まで多くの古墳を見てきましたが、墳丘にスベリ台が設置された古墳は初めて。公園古墳らしく、素敵な魔改造が施されています。

酒君塚古墳

スベリ台の横にある道から墳丘に登ることができます。といってもここが古墳と言われなければ、古墳と分かる人は誰もいないでしょう。

酒君塚古墳

墳頂には石碑がポツンと置かれていました。

酒君塚古墳

達筆で読みにくいのですが「酒君塚」と彫られているようです。明治34年に設置されたもので、男爵の国見さんという方が書いた字とのこと。

酒君塚古墳

石碑の隣には無造作に石が置かれていますが、これは古墳に使用された石材なんでしょうか?よくわかりません。

酒君塚古墳

墳頂はだれも人がおらず古墳を激写し放題だったのですが、特に激写ポイントも少なかったので帰ることにしました。

まとめ

酒君塚古墳

今回は、大阪市東住吉区にある「酒君塚古墳」を紹介しました。古墳にスベリ台が設置されているという魔改造が施され、予想以上に満足度の高い古墳といえます。スベリ台も堪能しようかと思いましたが、それをやると完全に不審者だったので、泣きながら諦めさせていただきました。

鷹狩り感は全くありませんでしたが、古墳でスベリ台を堪能したい人にはピッタリの古墳ではないでしょうか。

という訳で酒君塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた、別の魔改造スベリ台古墳を紹介したいと思います。

酒君塚古墳詳細

古墳名酒君塚古墳
住所〒546-0014 大阪府大阪市東住吉区鷹合2丁目5
墳形不明
全長35m
高さ2m
築造時期4世紀末
埋葬施設不明
被葬者(伝)酒君
参考資料案内板、東住吉区HP

案内板

酒君塚は「日本書紀」仁徳天皇四一年三月条によれば、百済の王族であり、仁徳天皇の命を受けて鷹を飼育したとあります。また鷹合の地名は、「日本書紀」仁徳天皇の四三年九月
是の月に、はじめて鷹甘部を定めむ。故、時人、その鷹を安養う処を」なづけて鷹甘邑という
の記事にちなむと言われています。
この酒君塚は、江戸時代中頃に成立した「摂津志」によれば、
住吉郡鷹飼部第宅の古蹟、鷹合村にあり。また、鷹甘部の墓ありとあり、「鷹甘部の墓」あるいは「平塚」と呼ばれていたことがわかります。
発掘調査の結果、上部を削られ低くなった古墳に江戸時代の終わりから明治時代のはじめに盛土をして、墳丘上にしたものであることがわかりました。もとの古墳の形状など、詳しいことはわかりません。
頂上に立つ石碑は、明治三四年(一九〇一)に建てられたもので中央に大きく「酒君塚」、左下に「正四位男爵国見□□」」と題字の筆者の署名が刻まれています。