はい、今回は奈良県明日香村にある「マルコ山古墳」を紹介します。このマルコ山古墳ですが、天智天皇の息子である「川島皇子」の墓との説があります。
川島皇子は、天智天皇の第三皇子で、大津皇子の自害に関わった人物ともいわれています。そんな高貴で曰く付きな人物の墓かもしれないと聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県明日香村にある「マルコ山古墳」へ行ってきました。
川島皇子とは
川島皇子の父は、第38代の天智天皇、母に忍海小竜娘を持つ皇族。母親について詳しいことは分かっていませんが、忍海とついていることから、奈良県葛城市を本拠地とした、忍海氏の出身と思われます。忍海氏は渡来系の豪族で、鍛冶に関する職を担っていたとのこと。母親は小豪族の出身ということもあり、皇位に就く順位としては高くなかったのかもしれません。
天智天皇が崩御後、息子の弘文天皇が即位。しかし弘文天皇と大海人皇子(後の天武天皇)の対立は深まり、大海人皇子は吉野にて挙兵。川島皇子は天智天皇の息子ですが、妻は大海人皇子の娘を娶っていました。この政変において川島皇子は、異母兄弟ではなく義父側に付き、大海人皇子と行動を共にしています。
川島皇子が知られるきっかけが、大津皇子の謀反です。天武天皇の後継者は、第二皇子で、母に天智天皇の娘である鸕野讃良(うののさらら)を持つ、草壁皇子でした。しかし、第三皇子の大津皇子も母に天智天皇の娘を持つ人物で、強力なライバルでもありました。その大津皇子と川島皇子は親友関係にあったとされています。

686年9月に天武天皇が崩御。その翌月10月に、川島皇子は大津皇子が謀反を企てていると密告。それを受けて大津皇子は、自害に追い込まれる事件が起こります。実際に大津皇子が謀反を企てたのか、本当に親友である川島皇子が密告したのかについては疑問が持たれています。ただこの事件は、草壁皇子に皇位を継がせたい、鸕野讚良の意向が強かったのではと考えられています。
川島皇子は、691年に薨御(こうぎょ)。日本書紀には、どこに葬られたかの記載はありません。ただ万葉集に柿本人麻呂が、川島皇子の妻に送った歌が残されています。その歌には「越智野」と記載があり、ここに川島皇子が葬られたと考えられています。
マルコ山古墳とは
明日香村は、都が置かれた地であり、天武・持統天皇に比定されている野口王墓古墳や、文武天皇の真陵との説がある、中尾山古墳など、皇族クラスの古墳がいくつも存在します。

川島皇子の葬られた「越智野」は、高取町の北部から明日香村西部にかけての丘陵地と考えられています。川島皇子の祖母にあたる斉明天皇は「越智丘」に葬られたとされ、マルコ山古墳の北にある牽牛子塚古墳が真陵と考えられています。

また、川島皇子の従兄弟に当たる草壁皇子は「真弓丘」に葬られたとされ、マルコ山古墳の南にある「束明神古墳」が真陵と考えられています。

マルコ山古墳は、牽牛子塚古墳と束明神古墳のほぼ中間地点に位置。丘陵の東西にのびる尾根の南斜面に築造されています。川島皇子は「越智野」に葬られたと記録されており、位置的に越智でも違和感はありません。立地的な点からも、マルコ山古墳が川島皇子の墓である可能性は高いと思われます。
という訳で、奈良県明日香村にある「マルコ山古墳」に来ています。マルコ山古墳周辺には、車を停める場所がありません。そのため、少し遠いのですが、高取町のリビエホールに車を停めさせていただきました。リビエホールから徒歩20分ほど歩き、集落に入ったところにマルコ山古墳が存在。マルコ山古墳周辺は、公園として整備されています。

マルコ山古墳の築造時期は、7世紀末~8世紀初頭。川島皇子は691年に亡くなっており、築造時期は一致します。墳丘は、二段に築成された対角辺24mの六角墳。終末期の古墳は、小型の円墳が多数を占めますが、皇族クラスは、八角墳や六角墳などが用いられることがあります。明日香周辺では、牽牛子塚古墳、束明神古墳、野口王墓古墳、中尾山古墳が八角墳を採用しており、それぞれ皇族の墓と考えられています。

しかし六角墳というのは例が少なく、地方に数基が確認されているのみ。マルコ山古墳の場合、皇族が多く葬られたエリアに築造されていることから、皇族クラスの墓である可能性は高いといえます。
墳丘の北側に半円形に巡らされた敷石が存在。敷石の下には礫をつめた暗渠があり、排水設備と考えられています。埋葬施設は、凝灰岩を用いた横口式石槨。17の切石により構成されており、上部は家形に作られています。横口式石槨も高貴な人物について用いられる埋葬施設で、牽牛子塚古墳、束明神古墳、野口王墓古墳、中尾山古墳にも用いられています。

石槨内からは、乾漆棺の破片が出土しています。乾漆棺は布に漆を塗って重ねて作られた棺で、終末期においては最高級のものでした。乾漆棺が用いられた古墳は、先の牽牛子塚古墳、野口王墓古墳をはじめ、藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳からも見つかっています。こうした点からも、マルコ山古墳には、かなり高貴な人物が埋葬されていたようです。

被葬者については、遺物より人物を特定するものは見つかっていません。ただ、越智野という地名、築造時期、六角墳、横口式石槨、乾漆棺という条件から考えると、川島皇子が有力候補となるのかもしれません。
という訳で、マルコ山古墳は整備されて上ることができるので、行ってみることに。こちらが古墳の南側。横口石槨は南側に向けて開口していますが、残念ながら埋め戻されてみることができません。あと、六角墳ということですが、なんとなく土が盛ってあるだけで六角感は全くありません。

北側に回ってみると、公衆トイレが設置されていました。墳丘の近くには遺構があったりするので、墳丘の真横にトイレがあるのはあまり見たことがありません。ちょっと攻めすぎですね。

こちらが古墳の北側になります。この辺りに半円形に敷石が存在したようですが、スーパー大逆光でよく分かりません。

こちらが墳頂からの眺望。標高120mの丘陵地に築かれたということで、周囲が一望でき、いい眺め。

マルコ山古墳は、明日香町ではメジャーな古墳の一つですが、中心地から離れていることもあり誰もいませんでした。もう少し六角感があればいいのですが、円墳にしか見えず、ややインパクトが欲しいところ。墳頂に上って景色を見たら他にする事が無くなったので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、奈良県明日香村にある「マルコ山古墳」を紹介しました。確かな被葬者は不明ですが、様々な要素から考えると、川島皇子が葬られた可能性はありそうです。ただ、同時期には他にも多数の皇族もいたので、被葬者についての確証を得るのは難しいかもしれません。
という訳で、マルコ山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、高貴な人物が埋葬された六角墳を紹介します。
マルコ山古墳詳細
古墳名 | マルコ山古墳 |
住所 | 奈良県高市郡明日香村大字真弓 |
墳形 | 六角墳 |
全長 | 対角長約24m |
高さ | 高さ約5.3m |
築造時期 | 7世紀末~8世紀初頭 |
被葬者 | 推定:川島皇子 |
埋葬施設 | 横口式石槨 |
石室全長 | 2.72m |
指定文化財 | なし |
出土物 | 漆塗木棺(乾漆棺)の破片・釘・金銅製六花型棺飾金具・大刀金具・尾錠 |
参考資料 | ・案内板 ・大和の古墳を歩く ・万葉集 ・現代語訳日本書紀 |
案内板
天武・持統陵から西南地域は、飛鳥地域でも有数の終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の集中するところで、真弓崗とも呼ばれている。マルコ山古墳もその中にあり、真弓丘陵の東西にのびる尾根の南斜面(標高120m)に位置している。昭和52・53年および平成2・16年の発掘調査で、版築で築いた対角辺24m、見かけの高さ約5.3mの六角形墳と考えられている。墳丘の北側には敷石を半円形にめぐらし、その下には、礫をつめた暗渠がある。石室は凝灰岩切石を組み合わせた石槨である。内寸法は271.9㎝、幅128.5㎝、高さ143.3㎝で南に開口し、床を含めた内壁の全体に漆喰が塗られてる。出土遺物には漆塗木棺(乾漆棺)の破片・釘・金銅製六花型棺飾金具・大刀金具・尾錠などがある。被葬者については、なお明らかではないが、皇族クラスの人物が考えられる。