はい、今回は大阪府八尾市にある「郡川西塚古墳(こおりがわにしづかこふん)」を紹介します。郡川西塚古墳は、2021年に国の史跡に登録、2023年に公園として整備されています。
以前は周囲を田畑に囲まれて近づけませんでしたが、公園ということで近くで見ることができそうです。そんな訳で、新しく整備された公園古墳を確認するため、大阪府八尾市に向かいました。
郡川西塚古墳とは
群川西塚古墳は、高安山山麓に築造された「高安千塚古墳群」の一つ。千塚という名前の通り、多くの小型古墳が存在し、大正時代には565基の古墳が存在したとのこと。開発や開墾により半数近く失われていますが、今でも230基の古墳が確認されています。
高安千塚古墳群は、近畿では一須賀古墳群(262基)、平尾山古墳群(約1300基)と並ぶ大型群集墳で、渡来系豪族に深いつながりがあると考えられています。
2015年3月10日に、高安千塚古墳群のうち、服部川支群、大窪・山畑支群、郡川北支群の一部が国の史跡として登録。2019年に郡川西塚古墳も国の史跡に追加登録されています。
そんな訳で、郡川西塚古墳のある大阪府八尾市に来ています。郡川西塚古墳の周辺に駐車場はありませんが、オークワが隣接しているので、買い物するついでに寄ることに。
こちらがオークワの2階駐車場から撮影した全景。以前は、周囲は茂みに覆われ近づけない雰囲気でしたが、今はキレイに整備されているようです。
古墳は公園に整備されており、案内板も設置。全てが真新しくキレイですが、真夏の炎天下ということで誰もいません。
古墳の近くまで行くと、更地にされた場所も雑草が生え始めていました。これは草刈りをしなければ、数年で茂みになりそうな予感。
郡川西塚古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造された、全長62mの前方後円墳。墳丘には葺石が敷かれ、埴輪が並べられていました。周囲には盾形の周濠が存在したことが発掘調査により分かっています。
埋葬施設は、右方袖式の横穴式石室。石室内からは、神人歌舞画像鏡などの銅鏡の他、多数の装飾品、須恵器、鉄製の武具や防具が出土しています。
かつて、郡川西塚古墳から東へ100mほどの場所に「郡川東塚古墳」が存在しました。郡川東塚古墳は、全長60mの前方後円墳でしたが、現在は開発により失われています。
この2基の古墳は、同時期に築かれ、同じ墳形、規模で、墳丘の向きも合わせて築造。この点より、両古墳の被葬者には強いつながりがあったと思われます。
どちらの古墳も埋葬施設は、右方袖式という初期型の横穴式石室。横穴式石室は朝鮮半島から九州を経て、近畿に広がったと考えられています。郡川西塚古墳の被葬者は渡来系豪族とのつながりを持った豪族だったのかもしれません。
郡川西塚古墳の築造を契機に、高安山古墳に横穴式石室を有した数多くの古墳が築かれることになります。
という訳で、郡川西塚古墳をぐるっと回ってみることに。墳丘はかなり削平され、全体的にぺったりとしています。1902年に開墾された際に、横穴式石室が開口したということなので、全体的にだいぶ削られているようです。
近くまで寄ってみると、周囲を石で固められていました。築造時のものではなく、整備時に古墳の形を維持するために補強されたのかも知れません。
こちらが南側の後円部。とにかく茂みまくっているので、丸くなっているのかサッパリ分かりません。埋葬施設は後円部側に存在し、南に開口していたようです。ただ削平されたのか、痕跡らしきものは何もありません。
こちらが西側から見た墳丘。茂み過ぎて、クビレ部分もよく分かりません。
こちらが前方部。ただただ茂みしかありません。
せっかく中に入れる古墳なので入ろうかと思いましたが、入ると二度と出てこれないぐらい茂っているので諦めました。墳丘に上るなら、冬に来たほうがいいかもしれません、
という訳で、八尾市でも数少ない現存する前方後円墳の郡川西塚古墳ですが、全力で茂み。謎のオッサンが茂みに入ったり出たりしているのも怪しい感じなので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪府八尾市にある「郡川西塚古墳」を紹介しました。公園にある整備された古墳ということで、間近に前方後円墳を見ることができます。
中に入れる感じですが、夏場の茂みパワーは凄まじく、とても中に入ることはできません。行くなら冬がオススメですが、中に入っても地面しか見えないと思います。茂みマニアは夏に、地面マニアは冬に訪れてみてはいかがでしょうか。
そんな訳で、郡川西塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、公園に整備された茂み前方後円墳を紹介します。
郡川西塚古墳詳細
古墳名 | 郡川西塚古墳 |
住所 | 〒581-0872 大阪府八尾市郡川1丁目 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 62m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀前半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(右片袖式) |
指定文化財 | 国の史跡:2021年10月11日 |
出土物 | 神人歌舞画像鏡・変形四獣鏡・神人歌舞画像鏡・銅鏡・碧玉製管玉・ヒスイ製棗玉・硬玉製勾玉・銀製垂飾付耳飾・銀製鈴・銅製鈴・ガラス玉・鞘尻金具・鉄矛・鉄刀・鉄冑・鉄鎧・須恵器 台付短頸壺・須恵器坏 |
参考資料 | ・案内板 |
案内板
国指定史跡 高安千塚古墳群
指定年月日:平成27年(2015)3月10日(服部川支群、大窪・山畑支群、郡川北支群の一部)
令和3年(2021)年10月11日(郡川西塚古墳、服部川支群の一部)
所在地:八尾市御郡川一丁目542番地
指定の理由:郡川西塚古墳は、高安山さんろくで最初に横穴式石室が導入された前方後円墳です。この古墳を契機として高安古墳群の造営が開始されたと考えられ、古墳群の成立を考える上で重要な古墳です。そのため、郡川西塚古墳を高安千塚古墳群に指定追加し、一体もののとして保護を図る必要があります。
<高安千塚古墳群について>
高安千塚古墳群は、6世紀代を中心とした近畿地方有数の大型群集墳です。高安山山ろくの尾根状に230基におよぶ古墳(円墳)が、大窪・山畑・服部川・郡川北・郡川南の4つの支群にわかれて分布しています。古墳群の造営がはじまる6世紀前半は、石室の特徴や副葬品に渡来系集団との関わりがうかがえますが、6世紀後半には大和(今の奈良県)の大型横穴式石室のような大きさの石室がつくられるようになります。
<郡川西塚古墳について>
郡川西塚古墳は、5世紀後半〜6世紀初頭につくられた全長62mの前方後円墳で、高安千塚古墳群の西方約1kmの山ろくから続く扇状地の先端に位置します。古墳の東側を南北に通じる東高野街道をへだてて、ほぼ同じ規模の前方後円墳の郡川東塚古墳がありました。
平成27年(2015)年から令和元年(2019)の発掘調査で、盾型の周濠と周堤をもつことがわかりました。墳丘斜面に葺かれた葺石が良好に残り、墳丘や周堤には円筒埴輪などが並べられていたようです。埋葬施設は右方袖式とみられる横穴式石室で、明治35年(1902)に石室内から神人歌舞画像鏡や変形四獣鏡、銀製垂飾付耳飾などの副葬品が出土しています。これらは、東京国立博物館に所蔵されています。
古墳に葬られた分物は、朝鮮半島からの文化や技術をいち早く取り入れることができた本拠地の有力者と考えられます。この古墳や郡川東塚古墳で横穴式石室が導入されたのち、山ろく部で横穴式石室を埋葬施設とする高安千塚古墳群の造墓がはじまりました。
令和5年3月 八尾市 魅力創造部 観光・文化財課