神明神社古墳|イージー古墳の時間がやってきました~奈良県葛城市~

神明神社古墳|イージー古墳の時間がやってきました~奈良県葛城市~

はい、今回は奈良県葛城市にある「神明神社古墳」を紹介します。

最近は空き地や丘みたいな古墳ばかり紹介してきましたが、やはりバリュー投資家なら石室が見たくてたまらないですよね。そんな要望にお応えして、今回は復元されたイージー古墳である「神明神社古墳」を紹介したいと思います。

神明神社古墳は誰の墓?

意外と知られていませんが、葛城市は奈良県でも屈指の古墳数を誇る地域でもあります。

その理由の一つとして、古代豪族「葛城氏」が本拠地としてたことが大きいと思われます。葛城氏は、天皇家に多くの妃を送り込み、外戚として大きな権力を握っていました。

ただ大な権力を有しすぎたため、第21代雄略天に粛正され葛城氏は衰退。その後、基盤を引き継いだのが「蘇我氏」といわれています。

雄略天皇
葛城一言主神社にある「雄略天皇像」

葛城氏、蘇我氏ともに武内宿禰を祖とする同族ですが、基盤の継承についてはまだ不明な点が多く残されています。

ただ神明神社古墳は7世紀後半の古墳で、すでに葛城氏も蘇我氏も衰退していました。そういう意味で、この古墳は蘇我氏から地盤を引き継いだ豪族と思われます。

神明神社古墳へ

はい、奈良県葛城市に来ています。神明神社古墳は「中戸中央公園」内にあり駐車場もありますが、今回は徒歩20分ほどの場所にある「屋敷山公園」から向うことにしました。

ちなみに屋敷山公園にも「屋敷山古墳」が存在しています。屋敷山古墳は5世紀中頃に築造された前方後円墳で、葛城氏の中でもかなりの有力者の墓と考えられています。まあ、見た目は丘にしか見えませんが。

屋敷山公園

屋敷山公園からブラブラと田園地帯を歩いて、中戸中央公園に到着。この公園の西半分は「奈良県社会教育センター」ですが、施設の老朽化と採算が合わないという理由で現在は閉鎖されています。

この辺りは寺口丘と呼ばれ、葛城山系から伸びた丘陵地の先端に当たります。神明神社古墳はこの丘陵部から伸びる尾根利用して築造されています。

公園内を歩いていると、神明神社古墳への案内板がありました。どうやら「いにしえの丘」という場所にあるようです。

神明神社古墳

案内板から少し歩いたところに、神明神社古墳の名前の由来である「神明神社」が存在します。赤いペンキが塗られた木製の鳥居ですが、手作り感あふれています。とりあえず、お参りしておきましょう。ちなみに祭神や由緒などは一切不明。

神明神社

こんな小さな神社ですが、なぜか百度石は置かれていました。ここで百度参りする人がいるのでしょうか・・・

神明神社

神明神社のすぐ隣が、神明神社古墳です。きれいに整備されたイージー古墳となっています。

神明神社古墳

神明神社古墳は、7世紀後半に築造された直径20m、高さ3.2mの円墳。ちなみに案内板がありましたが、風化しており判読できませんでした。この部分はイージーじゃないですね。

神明神社古墳

埋葬施設は横穴式石室。石材は表面を平らに仕上げており、精巧に組み上げられています。ちなみに石室前には鉄扉があり、中に入ることはできません。

神明神社古墳

横穴式石室の規模は、奥壁幅1.83m、中扉まで3m、前扉まで4.5mあり、これは唐尺(1尺ー80cm)の6尺、10尺、15尺にあたるそうです。

石室が見やすいように手前に擁壁を設置する魔改造が一部施されております。イージーですね。

神明神社古墳

7世紀後半ともなると、大規模な古墳は造られなくなり埋葬施設も簡素化の傾向にありました。その中で、加工された石材を計算のもとに造られた古墳ということで、被葬者はかなり身分の高い人物だったのではないでしょうか。

神明神社古墳

ちなみに、同じ敷地内に「皿池古墳」という古墳もあるのですが、こちらは5世紀頃の古墳ということで築造時期に200年ほど開きがあり、関係性は不明。

墳丘が低いため古墳感が少し薄めですが、精巧な石室内は見ごたえがあるのではないでしょうか。撮影ポイントはあるんですが、ツッコみどころが少ないのでとりあえず帰ることにしました。

まとめ

神明神社古墳

今回は、奈良県葛城市にある「神明神社古墳」を紹介しました。美しく精微な石室がキラリと光る古墳を前に、全バリュー投資家も感動したのではないでしょうか。

という訳で、神明神社古墳の紹介はこの辺で。次回はまた、別のイージー終末古墳古墳を紹介したいと思います。

神明神社古墳詳細

古墳名神明神社古墳
住所〒639-2146 奈良県葛城市中戸308
墳形円墳
直径20m
高さ3.2m
築造時期7世紀後半
埋葬施設横穴式石室
被葬者不明
参考資料案内板

案内板

寺口丘の南斜面に築かれた終末古墳。南方に小さく突き出した3本の尾根を利用して、中央部の尾根に墳丘と前庭部を、東と西の尾根を半円状に整形して、東西120m、南北60mの墓域を設けている。
この墓域の中央北寄りに、尾根の最高所を背にして、南側が開けた場所に径20mの円墳を築いている。
石室は、墳丘の中心部に花崗岩の巨石を組み合わせた南向きの横穴式の石室で、石材の表面を平らに仕上げていることと、玄室と羨道の明確な区別がないことが特徴である。
石室内は奥から3mの地点と4.5mの地点の側石に、幅8cmの溝が縦に付けられていて、ここに木製の中扉と前扉をはめこんでいたと推定される。
横穴式石室の規模は、奥壁幅1.83m、中扉まで3m、前扉まで4.5mあり、これは唐尺(1尺ー80cm)の6尺、10尺、15尺にあたる。古墳の構造と規模、出土品から7世紀後半の築造と推定される。
(概要)
1.調査年月日:1982年10月21日〜1982年1月7日
2.古墳の形と規模:円墳(径20m、高さ3.2m
石室:全長6.14m、高さ1.5m