はい、今回は大阪府堺市にある「銅亀山古墳(どうがめやまこふん)」を紹介します。銅亀山古墳は百舌鳥古墳群の一つで、世界文化遺産に登録されています。
同じく世界文化遺産に登録された古市古墳群では方墳が多いものの、百舌鳥古墳群では方墳があまり存在しません。だから何だといわれても困るんですが、そんな百舌鳥古墳群でも数少ない方墳の銅亀山古墳へ行ってきました。
銅亀山古墳とは
銅亀山古墳のある大阪府堺市に来ています。銅亀山古墳は仁徳天皇陵の南西に位置し、外濠に接するように築造。墳丘の主軸は、仁徳天皇陵と同じ方向であることから、仁徳天皇陵の陪塚と考えられています。
銅亀山古墳の築造時期は、出土した円筒埴輪の形状から、5世紀中頃と考えれれています。現在の墳形は一辺26mの方墳ですが、元々は一辺40m、高さ5.4mの規模を有していたようです。
百舌鳥古墳群の現存する44基の古墳のうち、方墳は銅亀山古墳を含めて5基しか存在しません。一方で、同時期に築造された古市古墳群では、現存する46基の内17基が方墳となっています。
百舌鳥古墳群と古市古墳群は同時期に築造が始まった古墳群ですが、構成される古墳にこのような違いが生じた理由はよく分かっていません。
そんな訳で、こちらが現在の銅亀山古墳になります。古墳名は、2段になった墳丘が「亀」に似ていることが由来。南側から見ると2段になっていることがよくわかります。
現在は「銅亀」ですが、かつては「どんがめ」「堂亀山」「土龜山」とも称されていたようです。土龜とはスッポンを意味しているので、昔から亀のような姿に見えていたのかもしれません。
銅亀山古墳は樹木の枝が払われ、比較的キレイに整備されています。ただ宮内庁が管理しているため、中に入ることができません。
宮内庁の柵はバリエーション豊富ですが、銅亀山古墳は棒と針金で周囲を囲っているパターン。隙間が広いため、見やすく撮影もしやすいので全部このパターンにしてもらいたいところ。
銅亀山古墳は、北側が茂み、東側が民家となっており、南と西側から見ることができます。かつて古墳の周囲には周濠が存在していましたが、現在は埋没してみることができません。
過去に記された絵図には円形で書かれていることと、南側から濠の跡が見つかっていないことから、南側に造出し部を有する帆立貝形古墳だった可能性も指摘されています。
古墳の東側には案内板と古墳名を記した立派な石碑が建てられています。石碑の裏側を見ると「昭和五十五年三月」と彫られており、40年以上前に設置されたもののようです。
墳丘を見ると、「仁徳天皇御陵陪塚」と彫られた石碑も置かれていました。こちらは風化がだいぶ進んでおり、下半分が読めません。
宮内庁が管理する古墳は、保存状態にバラツキがあるのですが、こちらは比較的良好に保存されていました。墳形が大きく削平されたものが多い百舌鳥古墳群の中では、古墳らしい姿といえます。
銅亀山古墳と仁徳天皇陵の間は遊歩道になっており、散歩やランニングをしている人がひっきりなしに通っています。そんな人通りの多い所で、謎の盛り土を撮影しているのも怪しいので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
百舌鳥古墳群でも数少ない「銅亀山古墳」を紹介しました。古墳名の通り亀にも見える古墳ということで、ツッコミどころが少なく、B級古墳好きとしては物足りなさもあります。
ただ宮内庁管理の陪塚としては保存状態もよく、スッキリと見やすい古墳ではないでしょうか。
という訳で、銅亀山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、亀の形に見える方墳かもしれない古墳を紹介します。
銅亀山古墳詳細
古墳名 | 銅亀山古墳 |
別名 | 堂亀山・土鼈山 |
宮内庁名 | 飛び地に号 |
住所 | 大阪府堺市堺区大仙町6−26 |
墳形 | 方墳 |
一辺 | 26m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 5世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 円筒埴輪 |
世界文化遺産 | 2019年7月6日 |
参考資料 | ・百舌鳥古墳群をあるく ・案内板 |
案内板
銅亀山古墳は、仁徳天皇陵古墳の前方部西側、外濠に沿って造られ、仁徳天皇陵古墳と関わりのある古墳(陪塚)と考えられます。墳丘は2段に築かれ、百舌鳥古墳群では数少ない方墳の一つです。
発掘調査では、墳丘の東側で濠が巡ることを確認し、円筒埴輪が出土しました。南側は濠が巡らないことが判明したため、単純な方墳ではなく前方部や造出しがつく可能性があります。