はい、今回は兵庫県芦屋市にある「阿保親王塚古墳(あぼしんのうづかこふん)」を紹介します。阿保親王塚古墳は、宮内庁により「阿保親王」の墓に治定されています。
宮内庁が治定する古墳は、被葬者が正しくないものが多いのですが、阿保親王塚古墳も考古学的には全力で否定されています。そんな訳で、阿保親王の墓だけど阿保親王の墓じゃないという「阿保親王塚古墳」へ行ってきました。
阿保親王とは
阿保親王は、平安時代に活躍した皇族として知られています。平城天皇を父とし、子に「伊勢物語」のモデルとして知られる在原業平を持ちます。続日本紀によると阿保親王は、文武を兼ね備えていた上、性格は謙虚で控え目であったと記されています。
ただ天皇の長男でありながら、皇太子には選ばれていません。母親の葛井藤子は貴族の娘でしたが、有力貴族の一門ではなかったことも理由にあるようです。
809年に父の平城天皇は、弟の嵯峨天皇に譲位し上皇へ。しかし平城上皇は、治世を巡り嵯峨天皇とは対立。810年に平城上皇は復位のために挙兵を企てますが、嵯峨天皇が素早く対処したため未遂に終わりました。いわゆる「薬子の変(平城太上天皇の変)」です。
阿保親王が薬子の変に関わっていたかについては不明ですが、平城上皇の息子ということで、大宰府へ左遷。後に許され、その後は母親の葛井氏の本拠地に居を構え、晩年を過ごしたといわれています。
言い伝えによると、阿保親王は芦屋に別荘を有していたとされ、芦屋には阿保親王にまつわる史跡がいくつか残されています。阿保親王塚古墳の南側にある「金津山古墳」には、阿保親王が村人のために黄金を埋めたとの伝説が残されています。
ただ、実際に阿保親王が芦屋に別荘を持っていたという記録は残されていません。
阿保親王塚古墳とは
阿保親王塚古墳のある、兵庫県芦屋市に来ています。今回は、阪神打出駅から金津山古墳に行ったついでに寄ることに。打出駅のすぐ北には「阿保親王廟」と刻まれた石碑が置かれています。このまま北に進むと阿保親王塚古墳へ続いており、阿保親王への参拝は、もう始まっているのです。
更に北に歩き国道2号線を渡ると、交差点の一角に再び「阿保親王墓」と刻まれた石碑が置かれています。芦屋市には宮内庁の管理する古墳は阿保親王塚古墳のみということで、古くから崇敬を集めていたのかもしれません。
2号線を更に北に歩いていくと、住宅地の奥に森のような場所があり、ここが阿保親王塚古墳になります。
ちなみに阿保親王塚古墳は「翠ケ丘町」にありますが西隣の町名は「親王塚町」となっています。なぜ阿保親王塚古墳のあるところが親王塚町ではないのか謎です。
阿保親王塚古墳は宮内庁が管理しており、周囲は生け垣に囲まれています。
その為、古墳の中に入ることはできません。立入禁止と書かれた宮内庁の看板が無慈悲に拒絶しています。
高級住宅地で高いモラルが求められるのか、宮内庁だけでなく芦屋市の注意も貼られていました。
こちらが阿保親王塚古墳の遥拝所。どこの遥拝所も似たような作りになっていますが、墳丘に比して広い敷地を有しており、かなり奥行きがあります。
北側を除いて古墳の周囲を歩くことができます。隙間から墳丘らしきものが見えますが、こちらが阿保親王塚古墳と思われます。
阿保親王塚古墳が阿保親王の墓に治定される要因の一つには「毛利家」が関わっています。戦国時代に中国地方の覇者として君臨した毛利家は「大江広元」の子孫を称していました。その大江氏は、阿保親王の末裔ともいわれています。毛利家としては先祖が皇族である方が格式も高まる為、各地の阿保親王にまつわる史跡に関与してきました。
ちなみに毛利氏の家紋である「一文字三星」は、阿保親王の死後に追贈された最も高い「一品(いっぽん)」の位を図案化されたものといわれています。
そんな訳で、江戸時代に阿保親王塚古墳は毛利藩によって数度改修が行われており、原形をとどめていません。現在は円墳と考えられていますが、方墳もしくは前方後円墳との説も存在します。
古墳の出土品として、4面の銅鏡が芦屋市にある親王寺に保存されています。この銅鏡は、阿保親王850回忌(1691年)に、毛利藩による古墳の改修時に見つかったと伝わっています。毛利家文書によると7面見つかったとありますが、残りの3面についてはよく分かっていません。
出土した銅鏡や埴輪の形状から、阿保親王塚古墳は4世紀後半頃に築造されたと考えられています。阿保親王が没したのは8世紀後半であり、古墳の築造時期と400年ほど開きがあります。そのため、阿保親王塚古墳が阿保親王の墓である可能性は、ほぼありません。
そんな阿保親王の墓だけど阿保親王の墓ではない古墳の周りを激写していましたが、とくに古墳としての見所はありません。高級住宅地で激写をつづけているのもなかなか不審な感じなので、ほどほどのところで帰ることにしました。
まとめ
今回は、兵庫県芦屋市にある「阿保親王塚古墳」を紹介しました。宮内庁の治定はいい加減なのでよくあることですが、築造時期と没年に400年も開きがあるものも珍しいかもしれません
宮内庁による治定は明治時代に行われているので、阿保親王への治定には毛利藩の強い意向が働いた可能性はあります。
という訳で、阿保親王塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、築造時期と被葬者の没年が400年近く離れた古墳を紹介します。
阿保親王塚古墳詳細
古墳名 | 阿保親王塚古墳 |
住所 | 兵庫県芦屋市翠ケ丘町11 |
墳形 | 推定:円墳 |
直径 | 約36m |
高さ | 約3m |
築造時期 | 4世紀 |
被葬者 | 宮内庁:阿保親王 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | ・円筒埴輪、石帯 ・親王寺所有伝阿保親王墓出土品:三角縁神獣鏡、波紋帯鏡 |
参考資料 | ・阿保親王墓墳丘外形調査および出土品調査報告 ・兵庫県史 |
案内板
阿保親王(792〜842)は平安時代の貴族で、歌人として有名な在原業平の父でもある。古墳は古墳時代前期(4世紀)に築造されたもので、現状は直径約36m、高さ約3mの円墳を方形の濠が囲む。これは江戸時代に阿保親王の子孫を称する長州藩(山口県)毛利氏が大改修を行った後の姿である。改修の際に出土したとされる4面の銅鏡が親王寺(打出町)の寺宝として伝えられており、芦屋市指定文化財に指定されている。
芦屋市