はい、今回は奈良県斑鳩町にある「調子丸古墳(ちょうしまるこふん)」を紹介します。斑鳩町は、法隆寺など聖徳太子ゆかりの史跡が多い町として知られています。
この調子丸古墳ですが、聖徳太子の愛馬の馬丁の墓との言い伝えが残されています。そんな聖徳太子の馬丁の墓かも知れない古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。という訳で、奈良県斑鳩町にある調子丸古墳へ行ってきました。
田んぼの中にある謎の盛り土
調子丸古墳のある、奈良県斑鳩町に来ています。今回は、斑鳩町西部の古墳を巡りながら調子丸古墳へ。斑鳩町には聖徳太子により「斑鳩宮」が築かれています。聖徳太子は、斑鳩宮と飛鳥の間を通る「太子道」を使い、住まいから都へ行き来していたようです。
そんな聖徳太子には「黒駒」という愛馬を所有していました。甲斐国から献上された名馬で、乗れば空を飛び富士山まで達したとの伝説を持ちます。
この黒駒には、世話係りの「調子丸」という馬丁がいました。調子麿、調子麿呂ともいわれており、聖徳太子の舎人であったとも。
調子丸は、馬の世話係ということであまり身分は高くないイメージですが、実は百済の聖明王の甥にあたる人物。来日した際に聖徳太子に仕え、84歳で亡くなったといわれています。やはり聖徳太子レベルになると、馬丁でも王族クラスがつくのでしょうか。
ちなみに調子丸が実在したのかは不明ですが、聖徳太子には、「調使氏」という一族が使えていました。調子氏は渡来系の豪族で、諸国からの貢物管理を担当していたといわれています。
そんな調子丸の墓とされているのが「調子丸古墳」です。調子丸古墳は、斑鳩町西部に位置し、中宮寺跡から少し南側に存在。ちなみに調子丸古墳のすぐ北側には、黒駒の墓と伝わる「駒塚古墳」が存在します。黒駒は、中宮寺の南に葬られたと伝えられており、駒塚古墳が黒駒の墓といわれています。おそらく駒塚古墳が黒駒の墓なら、その近くにある古墳は調子丸の墓だろう的なノリで決められたような気がします。
そんな訳で、駒塚古墳に来たついでに調子丸古墳へ。黒駒古墳から目と鼻の先にありますが、周囲を田んぼに囲まれており、近くに行くためには少し遠回りする必要があります。
そしてこちらが近くから見た調子丸古墳。
田んぼにある盛り土ですね
調子丸古墳は、5世紀に築造された円墳。現在は直径13mほどですが、元々は30mの規模と考えられています。詳しい調査が行われていないため、葺石、埴輪、周濠の有無については不明。
埋葬施設についても分かっていません。ただ、周辺より土馬の頭部が見つかっていることから、古墳であることは間違いないようです。
ちなみに調子丸古墳は5世紀に築造されており、調子丸が活躍した6世紀とは時期がズレています。そのため、調子丸古墳の被葬者が調子丸である可能性はないとのこと。
グルッと周りを見たいところですが、田んぼに囲まれているため、他の角度からみることができません。どの角度から見ても、田んぼの中にある盛り土にしか見えないと思いますが…
ちなみにこの調子丸古墳は、1992年10月8日に、駒塚古墳と併せて町の史跡に指定されています。町の史跡ならせめて案内板が欲しいところ。そんな訳で、田んぼの中にある謎の盛り土を激写し続けでも仕方がないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県斑鳩町にある「調子丸古墳」を紹介しました。調子丸の墓と伝わる古墳ですが、実際は別人の墓のようです。田んぼの中にポツンとある感じがシュールで、個人的には結構お気に入りの古墳です。田んぼにポツンとある古墳マニアには、おすすめの古墳といえるでしょう。
という訳で、調子丸古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、聖徳太子の愛馬の馬丁の墓かもしれないけど、実は別人の古墳を紹介します。
調子丸古墳詳細
古墳名 | 調子丸古墳 |
住所 | 奈良県生駒郡斑鳩町東福寺1丁目5−32 |
墳形 | 円墳 |
全長 | 15m(築造時は30m級) |
高さ | 不明 |
築造時期 | 5世紀頃 |
被葬者 | 伝:調子丸(麿) |
埋葬施設 | 不明 |
指定文化財 | 町の史跡:1992年10月8日 |
出土物 | 土馬の頭部 |
参考資料 | ・大和の古墳を歩く |