今回は奈良県奈良市にある「三陵墓古墳群」を紹介します。三陵墓古墳群は、文字通り3つの古墳から構成された古墳群。
その三陵墓古墳群には、謎の巨大古代人像がそびえたっています。巨大な古代人像が見られるとあっては、見に行かずにはいられません。ちなみに三陵墓古墳群は「奈良市」にありますが、奈良市の範囲は意外と広く、ビックリするぐらい山奥にありました。そんな訳で奈良県奈良市にある「三陵墓古墳群」へ行ってきました。
三陵墓古墳群とは
三陵墓古墳群は、三陵墓西古墳、三陵墓東古墳、三陵墓南古墳の三つの古墳から構成された古墳群。そのうち、三陵墓西古墳と三陵墓東古墳が公園として整備されています。
三陵墓古墳群は大和高原と呼ばれる場所に存在し、一帯では最大の古墳群として知られています。
三陵墓西古墳(円墳)
三陵墓西古墳は、5世紀前半に築造された直径40m、高さ5mの円墳。墳丘には葺石が敷かれており、円筒埴輪の存在も確認されています。
三陵墓西古墳は、埋葬施設を2つ持つのが特徴。1つ目は粘土槨に竹割形木棺を収めたもので、最初に埋葬されたもの。二つ目が、木棺を直接収めたもの。こちらは追葬といい、後から被葬者が追加されたものです。
三陵墓東古墳(前方後円墳)
三陵墓東古墳は5世紀後半に築造された、全長110m、高さ11mの前方後円墳。三陵墓西古墳同様、葺石と円筒埴輪の存在が確認されています。
埋葬施設は不明ですが、粘土槨に木棺が収められていると伝えられています。
三陵墓東古墳(円墳)
三陵墓南古墳は6世紀ごろに築造された、直径約16mの円墳。調査が行われていないため、詳細は不明。
現在、墳丘には神社が建てられており、古墳としては整備されていません。
被葬者は闘鶏氏?
被葬者は不明ですが、この一体を治めていたとされる「闘鶏国造(つげのくにくにのみやつこ)」との説があります。三陵墓古墳群一体は、かつて「闘鶏国(つげのくに)」と呼ばれていました。
その闘鶏国を治めていたのが、国造であった闘鶏氏(つげうじ)です。闘鶏氏は、神武天皇の長男である「神八井耳命(かんやいみみのみこと)」を祖とする一族。神八井耳命は、神武天皇の長男でしたが、訳あって弟に皇位を譲り、その子孫は地方で栄えました。
闘鶏氏もその一つであり、皇族の血を引く豪族として闘鶏国を治めていました。日本書紀においては、仁徳天皇の時代に闘鶏氏が国造として登場しています。仁徳天皇が活躍した時代が4世紀後半から5世紀前半と考えられており、ちょうど三陵墓西古墳の築造時期にもあてはまります。
ただややこしいのは「都祁直(つげのあたい)」という一族もおり、闘鶏氏と同族なのか別一族なのかは分かっていません。
三陵墓古墳はこの一帯で最大の古墳であることから、国造であった闘鶏氏の墓との説があります。
奈良市の範囲が広すぎる問題
今回は大和高原にあるホテルに一泊の予定で、途中天理市でランチを取りました。まさか家族もこの後に、山奥の古墳に拉致されるとは夢にも思わなかったでしょう。
奈良市といえば、大仏のある奈良公園を思い浮かぶと思います。しかし奈良市都祁という場所は奈良市中心から思いっきり離れた、思いっきり山の中にあります。西名阪自動車道から名阪国道に入り、曲がりくねった急勾配の坂を登り続けました。
ただアクセスはそんなに悪くなく、名阪国道の針ICから車で15分の場所にあり駐車場も完備。もちろん訪問時は1月の真冬だったので1台も車は停まっていませんでした。
正月の三が日から張り切って古墳を見に行く人は少ないのか誰もいません。暖冬の年でしたが雪が結構残っており、妻は全力で帰りたがっていました。
ここは「三陵墓古墳群史跡公園」として整備されており、三陵墓西古墳、三陵墓東古墳が保存されています。ちなみに三陵墓南古墳は忘れられた存在となっており、離れた場所で神社と一体化しています。
まずは三陵墓西古墳に向かいます。少し丘を上るといきなり巨大古代人像がお出迎え。
モニュメントとして埴輪が置かれるのは見かけますが、巨大古代人像は初めて。ちょっとずんぐりむっくりした古代人です。
なんとも言えない顔をしているんですが、いったいどんな感情を表現しているのでしょうか。道を歩いていて、この顔の人がきたら怖いです。
古代人を見つめていても仕方ないので、古墳へ向かいます。こちらはきれいに整備されたイージー古墳。
5世紀前半ということで、封土には葺石が敷かれ、墳丘には円筒埴輪が配置されています。古墳時代後半になると、葺石も円筒埴輪も置かれなくなるので、古墳のおよその年代がわかるという仕組みです。
こちらが墳頂。周囲に円筒埴輪が再現されていて完全にイージー。築造時も墳頂は平らになっており、直径16mほどあったそうです。地面は舗装までされており、パーフェクトイージーでした。
次に、少し東にある「三陵墓東古墳」に向かいます。こちらは前方後円墳で、同じく整備されたイージー古墳。残念ながら、巨大古代人像は配置されていませんでした。減らすのではなくむしろ2体置いて欲しいところです。意味はありませんが。
三陵墓東古墳は、三陵墓西古墳より後の5世紀後半に築造されています。同族が作ったこと思いますが、なぜ円墳ではなく前方後円墳になったのかは分かりません。丸だけじゃ物足りなかったのかもしれません。
日本には16万基も古墳があると言われていますが、墳形の選ばれるパターンがわかっていません。皇族の墓以外は、案外個人的な好みで決められてたんじゃないかとも思います。
とりあえず墳丘に登ってみます。110mの前方後円墳ということもあり、迫力があります。ただあまり人が来ないのか、やや寂しい雰囲気も。完全に巨大古代人像を建てなかったのが敗因ですね。今からでも予算をとって10体ぐらい建てるべきです。
こちらも段ごとに円筒埴輪が配置され、当時の姿が再現されています。もちろん墳頂に登るための階段も設置されイージー。イージー古墳はツッコミどころが少ないので、非常に困ります。
墳頂にも円筒埴輪が置かれ整備されています。ただこちらは舗装されていません
本当は、少し離れたところにある三陵墓南古墳も見に行きたかったのですが、とても許される空気ではなかったので帰りました。
まとめ
今回は奈良県奈良市にある「三陵墓西古墳」を紹介しました。奈良市といいながら、三重県スレスレの場所にある古墳群でした。整備された古墳な上、巨大古代人像まで配備されたとなると、行かずにいられないのではないでしょうか?
そんな訳で、三陵墓古墳群の紹介はこの辺で。次回はまた別の、巨大古代人像のある古墳を紹介します。
三陵墓西古墳詳細
古墳名 | 三陵墓西古墳 |
住所 | 奈良県奈良市都祁南之庄町1024 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 40m |
高さ | 5m |
築造時期 | 5世紀前半 |
埋葬施設 | 粘土槨 |
埋葬者 | (推定)都祁直・闘鶏国造 |
県の指定史跡 | 1996年3月22日 |
参考資料 | 案内板 |
古墳名 | 三陵墓東古墳 |
住所 | 〒632-0241 奈良県奈良市都祁南之庄町1024 |
墳形 | 前方後円墳 |
直径 | 110m |
高さ | 11m |
築造時期 | 5世紀後半 |
埋葬施設 | 粘土槨 |
埋葬者 | (推定)都祁直・闘鶏国造 |
県の指定史跡 | 1996年3月22日 |
参考資料 | 案内板 |