はい、今回は奈良県大和高田市にある「築山古墳」を紹介します。築山古墳は、宮内庁により「顕宗天皇」の陵墓かもしれない古墳とされています。しかし、様々な理由によりその可能性は否定されています。
そんな訳で、築山古墳の真の被葬者を探るべく大和高田市に向かうことに。もちろん行ったところでなにも分からないのですが。
埋葬者は顕宗天皇なのか?
築山古墳は、大和3大古墳群の一つ「馬見古墳群」に属しています。馬見古墳群は「北群」「中央群」「南群」の3ブロックに分かれており、築山古墳は南群における最大の古墳。
築山古墳は、全長210mの巨大前方後円墳で、全国でも23位の規模。周囲に点在する「インキ山古墳」「かん山古墳」「古屋敷古墳」「松島茶臼山古墳」「コンピラ山古墳」は、築山古墳の陪塚(付属墳)と考えられています。規模や陪塚の数などから考えると、築山古墳の被葬者は、大王級の人物である可能性が高いようです。
築山古墳は宮内庁により23代「顕宗天皇」の磐園陵墓参考地に治定されています。陵墓参考地というのは、その人物の墓かもしれないので宮内庁が管理しますよという陵墓。
日本書紀によると顕宗天皇は「傍丘磐坏丘南陵」に葬られたとされています。南陵とあるように実は北陵もあり、こちらは武烈天皇が葬られています。現在宮内庁が比定している両天皇陵は、香芝市に存在しますが、こちらも本当に両天皇の陵墓なのかは疑問視されています。
築山古墳が陵墓参考地とされているのは、傍丘磐坏丘がどの場所なのか諸説あるため、保険として陵墓参考地としているのかもしれません。
ただ、築山古墳の築造時期と顕宗天皇の治世には100年ほど開きがあり、築山古墳も顕宗天皇の陵墓である可能性は低いようです。
ちなみに築山古墳の対となる古墳として、北に1キロほど離れた新山古墳が、武烈天皇の陵墓参考地として宮内庁に比定されています。
築山古墳は4世紀末に築造された古墳で、ちょうど「百舌鳥・古市古墳群」の築造時期と重なります。仁徳天皇陵が5世紀半ばに築造されていることから、その半世紀前の大王クラスの人物が埋葬されているのかもしれません。
築山古墳へ
築山古墳のある奈良県大和高田市に来ております。古墳が密集する築山駅南側は家ばかりですが、古墳だけは沢山あります。築山古墳は住宅地にある巨大古墳ながらも、北、西、東側が開けており、全体像を確認することができます。南側のみ住宅地が立ち並んでいるため見ることができません。
宮内庁が管理する古墳ですが、陵墓参考地なので遥拝所はありません。あるのはテンプレートの木の立て札と管理小屋だけ。
宮内庁が管理しているため、古墳の中には入ることはでいません。
ただ、この場所だけ濠が埋められているため墳丘を確認することができます。階段らしきものはありますが、それ以外は茂みしかありません。
こちら側が築山古墳の北側。道幅が狭いので全景は撮影できませんが、なんとなくクビレ部分があるのがわかります。もともとは濠ももう少し広く、南北左右対称だったとのこと。
かつて墳丘には葺石がほどこされており、周辺から円筒埴輪や形象埴輪の破片が数百点ほど見つかっています。
こちらが築山古墳西側の後円部。かなり濠の幅が広く、後円部全体を確認することができます。
これだけ立派な濠があるとありがちなのですが、中世には城としても利用されていたとのこと。
あまりにも濠が深いので、宮内庁も注意の看板を掲げていました。まあ、こんな緑色で深そうな濠に入ろうと思う人がいるかは分かりませんが・・・
東側も見ることはできるのですが、なぜか写真を撮り忘れていました。まあ、茂みしか見えないのですが。グルッと一周しましたが、築山古墳の真の被葬者は分からなかったので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は奈良県大和高田市にある「築山古墳」を紹介しました。陵墓参考地は遥拝所もなく、中に入れず、情報も少なく、ツッコミどころもない古墳が少なくありません。築山古墳も例に漏れませんが、豊かな濠と美しい墳丘が見られるという点においては見応えがあるといえるでしょう。
という訳で、築山古墳の紹介はこの辺で。次回は、また誰の墓か分からない古墳を紹介したいと思います。
築山古墳詳細
古墳名 | 築山古墳 |
宮内庁名 | 磐園陵墓参考地 |
住所 | 奈良県大和高田市築山 |
墳形 | 前方後円墳 |
直径 | 220m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 4世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
参考資料 |