はい、今回は大阪府東大阪市にある「出雲井5号墳(いずもいごごうふん)」を紹介します。出雲井5号墳は、14基で構成される出雲井古墳群の一つ。
そんな出雲井5号墳ですが、現在はマンション内にある公園の一角に保存されています。ただ石室は埋め戻されているようで、石がポツンとあるだけにしか見えません。マンション内の公園に石がポツンとあるだけにしか見えない古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんなわけで、大阪府東大阪市にある「出雲井5号墳」へ行ってきました。
出雲井5号墳とは
出雲井5号墳のある、大阪府東大阪市に来ています。東大阪市の古墳は生駒山地の中腹に多く、特に「山畑古墳群」は、100基以上もの古墳が築かれた群集墳として知られています。山畑古墳群の北側にも、豊浦谷古墳群、みかん山古墳郡などの小規模な古墳郡がいくつか存在。出雲井5号墳も、同じく山畑古墳群の北側にある「出雲井古墳群」に属しています。

出雲井古墳群は、14基の古墳から構成されている古墳群。1、2、3、11号墳は山中にあり、見に行くことが難しく、12、13、14号墳は消滅。そのため、4、5、6、7、8、9号墳が見ることが出来ます。

出雲井という地名ですが、「井」とつくように、水のわき出る場所を意味します。出雲井古墳群のすぐ北にある「枚岡神社」には、出雲井という水が湧き出る井戸が今も残されています。

そんな訳で、東大阪市の山側の古墳を巡りながら出雲井5号墳へ。出雲井5号墳は、枚岡神社から徒歩10分ほどの場所に存在。昔から出雲井5号墳は、石室の存在が知られていましたが、マンション開発に伴い敷地内の公園に保存されることに。
山裾に建てられたマンションということで、なかなかの坂道を上る必要があります。マンションの片隅にわずかなスペースがあり、そこに出雲井5号墳が存在しました。

まあまあの石ですね
案内板が設置されているので、かろうじて古墳だとわかります。もし看板がなければ、古墳と気づく人はいないでしょう。どうやら発掘調査の後に埋め戻されて、石室の一部が露出しているだけのようです。

出雲井5号墳は、6世紀中頃に築造された円墳。石室を覆う封土は失われており、石室だけがのこされていたとのこと。周囲に幅約5m、深さ1~1.5mの周濠がみつかっており、この点より築造時の規模は、直径15mと考えられています。
埋葬施設は、左袖式の横穴式石室。石室は、玄室長4.2m、羨道長6.4mを測り、全長10m以上の規模。この時代の横穴式石室としては、比較的大きめの石室ではないでしょうか。

玄室奥2/3には、拳大の敷石がしかれて石棺が置かれていました。残念ながら石棺は破壊されており、破片が散乱していたとのこと。初葬のあとも6世紀後半まて、3回の追葬が行われていたようです。ちなみに、鎌倉時代にも墓として利用されていたとか。

被葬者については、わかっていません。東大阪市最大の山畑古墳群は、渡来系豪族の墓と考えられていますが、周辺の小規模古墳群は地元豪族の墓とも考えられています。出雲井古墳群は、出雲井という水源に近い場所に築造されていることから、水利を管理していた有力者の墓なのかもしれません。
そんなわけで、出雲井5号墳の周りを見てみることに。と言っても、見た感じ石が2個ほど見えているのが全てです。おそらく天井石の一部と思われますが、とにかく石です。お疲れさまでした。とりあえず眺めはかなり良いので、なかなかいい場所に建てたのではないでしょうか。

誰もいない公園なので、激写し放題なんですが、いくら激写しても石が2個あるだけなので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府東大阪市にある「出雲井5号墳」を紹介しました。公園に保存されるケースはよくありますが、マンション内の公園に保存されるのは珍しいかもしれません。ただ、見に行っても2、3個の石があるだけですが。
そんな訳で、出雲井5号墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、マンション内の公園に保存された、横穴式石室という名の石を紹介します。
出雲井5号墳詳細
古墳名 | 出雲井5号墳 |
別名 | 無し |
住所 | 大阪府東大阪市五条町9 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 推定:約15m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(左袖式) |
石室規模 | 10.6m (玄室:4.2m+羨道:6.4m) |
出土物 | 須恵器、土師器、鉄鏃、瓦器、馬具 |
指定文化財 | 無し |
参考資料 | ・東大阪市の古墳 ・出雲井遺跡第1次発掘調査報告書 |
案内板
5号墳は、直径15mの円墳です。墳丘はすでに削られて無くなっていましたが、墳丘をめぐっていた周濠が残っていました。集合の幅は5mで、水がわずかに蓄えられていたようです。中央には左肩袖式の横穴式石室が残っています。全長10m、玄室の幅2.2m
長さ4.2m、高さ2.8m、羨道の幅1.2m、高さ2mです。玄室の床面には10cm前後の石を敷き、その上に石棺を置いていたと考えられています。
この石室は6世紀中頃(約1450年前)に造られ、その後、約50年間の間に三度の追葬が行われたことが推定されています。また、鎌倉時代にもお墓として利用されています。