はい、今回は兵庫県宝塚市にある「中山寺古墳(なかやまでらこふん)」を紹介します。この中山寺古墳は、14代仲哀天皇の后である「大中姫」の墓と伝わる古墳として知られています。
仲哀天皇の后といえば、三韓征伐を行った女傑「神功皇后」が知られていますが、大中姫は神功皇后の前妻にあたります。そんな大中姫の墓と伝わる古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。という訳で、兵庫県宝塚市にある「中山寺古墳」へ行ってきました。
中山寺古墳とは
中山寺古墳のある、兵庫県宝塚市に来ています。宝塚市は、塚という文字がつくように、かつては多くの古墳が存在しました。ただ、後世の開墾や開発で多くの古墳が消滅したため、現在は長尾丘陵側にいくつかの古墳が残されるのみ。
中山寺古墳は、安産に御利益のあるお寺として有名な「中山寺」の境内に存在します。中山寺は、聖徳太子が、仲哀天皇と大中姫の子である麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)の供養のために建立したと伝わっています。

中山寺の境内は広く、多くの参拝者で賑わっていました。とりあえず古墳を訪れる前に、本堂にて参拝。本堂へ向かう途中に気がついたのですが、山側に五重塔らしき伽藍を発見。参拝後に気になって近づいてみると、青を基調とした真新しい塔でした。

調べてみると、かつての中山寺には五重塔と多宝塔が存在したようです。しかし、戦国時代の荒木村重の乱にて伽藍は焼失。そのため、時間をかけながら再興してゆき、平成29年に五重塔を再建したとのこと。ちなみにこの青は、青龍をイメージしているそうです。

インパクトありすぎな五重塔を後に、目的の中山寺古墳へ。本堂から少し戻り、参拝道から少し西側にそれた目立たない場所に、中山寺古墳が存在しました。

ガッチガチに石垣で
補強されていました
神社や寺に保存された古墳は、放置されがちですが、中山寺古墳は入口付近をかなり魔改造されていました。ちなみに中山寺古墳は、1960年に兵庫県の史跡に登録されています。

中山寺古墳は、別名「白鳥塚古墳」とも呼ばれる、6世紀末~7世紀初頭に築造された古墳。東西を川に挟まれ、東西にのびる中央の尾根端に立地。これは風水思想に基づいて築造されたと考えられています。

かなりの改変を受けているため、墳形は分かっていません。円墳との説がありますが、立地的に方墳の可能性が高いとのこと。詳しい発掘調査が行われておらず、遺物については不明。
埋葬施設は、全長14mを測る両袖式の横穴式石室。玄室長5.5m、羨道長8.5mと、玄室に対してかなり羨道が長い特徴を持ちます。玄室は上部にかけて幅がやや狭くなる、持ち送りの構造。
切石や漆喰は用いられていませんが、類似した石室として、奈良県にある文殊院西古墳や岩屋山古墳が挙げられています。

そんな訳で、石室の内部に入ってみることに。羨道は基底部に巨石を置き、その上に小さな石を2~3段積む構造。一部改変を受けているものの、比較的良好な姿で残されています。

羨道の奥が玄室ですが、鉄の柵が設置されており、これ以上奥に進むことはできません。ちなみに柵の前にあるのは賽銭箱です。

柵越しに玄室を見ると、奥に石棺が置かれていました。この石棺は、兵庫県産の竜田石(凝灰岩)を用いた家形石棺。蓋石には縄掛突起が付けられ、身は刳抜式という組み合わせ。

竜田石産の凝灰岩は、高貴な人物に用いられる石材として知られています。また身の部分も、組み合わせ式ではなく、手間のかかる刳抜式ということで、中山寺古墳の被葬者はかなり身分の高い人物だったようです。
寺伝によると、長谷寺の開祖「徳道上人」が病で仮死状態になった際、閻魔大王からお告げをいただくことに。閻魔大王からお告げの証拠として御宝印と起請文を受け取り、最終的にこの石棺に納めたとあります。そんな由来から、この石棺は「石の櫃(からと)」とも呼ばれています。
被葬者についてですが、中山寺では「大中姫(おおなかつひめ)」の墓との言い伝えが残されています。大中姫は14代仲哀天皇の后で、麛坂皇子と忍熊皇子の母。大中姫の両親は、仲哀天皇の父である日本武尊(ヤマトタケル)の異母兄弟にあたります。つまり、仲哀天皇と大中姫はイトコ同士の関係。

大中姫に関する事象はほとんどありませんが、息子の麛坂皇子と忍熊皇子については記紀に記録が残されています。仲哀天皇の后に、三韓征伐で有名な「神功皇后」が存在します。神功皇后は三韓征伐後に誉田別尊(応神天皇)を出産。そのため、次の皇位への危機感を抱いた麛坂皇子と忍熊皇子は、反乱を試みるも失敗。両皇子は非業の死を遂げています。聖徳太子が両皇子を供養するために中山寺を建立したことが由来であることから、古墳を大中姫の墓にしたのかもしれません。
しかしながら、大中姫が活躍した時代は4世紀末とされ、中山寺古墳の築造時期は6世紀末頃。200年以上の開きがあることから、大中姫の墓ではないと考えられています。
被葬者については不明ですが、周辺の古墳の中では、中山荘園古墳と並ぶ巨大古墳であることから、地元でもかなりの有力者の墓と考えられています。

そんな訳で、石室と石棺が残る見応えのある古墳ですが、あまり寺の中で古墳を激写し続けている人もおらず、確実に浮いていたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、兵庫県宝塚市にある「中山寺古墳」を紹介しました。玄室は祭祀の場として保存されており、石棺と併せて見応えのある古墳といえるでしょう。しかし聖徳太子がなぜ大中姫やその息子達の供養のために、中山寺を建てたのか、その点がよく分かりませんでした。
そんな訳で、中山寺古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、天皇の奥さんの墓と伝わる寺にある古墳を紹介します。
中山寺古墳詳細
| 古墳名 | 中山寺古墳 |
| 別名 | 白鳥塚古墳、石の唐櫃 |
| 住所 | 兵庫県宝塚市中山寺2丁目11 |
| 墳形 | 不明 |
| 全長 | 不明 |
| 高さ | 不明 |
| 築造時期 | 6世紀末-7世紀初頭 |
| 被葬者 | 伝:大中姫 |
| 埋葬施設 | 横穴式石室(両袖式) |
| 石室規模 | 14m |
| 出土物 | 不明 |
| 指定文化財 | 兵庫県の史跡:1960年3月31日 |
| 参考資料 | ・兵庫県史 |
案内板
県指定 文化財
中山寺古墳
昭和35年3月31日指定
本墳は南面する両袖式の横穴式石室で、石棺を安置する玄室は、長さ5.5m、巾2.4m。高さ3mあり、羨道 は長さ8.5m、巾約1.2m、高さ約2mで巨石をもって造られている。
石棺は、蓋石に縄掛突起をもち、棺身が刳抜式の家形石棺である。巾1.06m、長さ1.8m、高さ1.2mで、この形式の石棺のなかでは代表的なものといえる。
本墳の建造年代は、6世紀後半頃と考えられ、古墳時代後期に、この西摂地方に勢力をもっていた豪族の墳墓と考 えられる。西摂平野の縁辺に数多い古墳中、後期古墳の著例として貴重な文化遺産である。
昭和49年10月 宝塚市
