玉手山3号墳|前方後円墳と宗教施設と茂み〜大阪府柏原市〜

玉手山3号墳

はい、今回は大阪府柏原市にある「玉手山3号墳(たまてやまさんごうふん)」を紹介します。玉手山3号墳は上る前方後円墳ですが、思う存分茂みを堪能することができる古墳です。

たいがい茂みは堪能してお腹いっぱいなんですが、登って茂みが堪能できる前方後円墳と聞いたからには行かずにはおれません。そんな訳で、大阪府柏原市にある「玉手山3号墳」を紹介します。

玉手山3号墳とは

玉手山3号墳は、柏原市南西部に位置する玉手山に築かれた「玉手山古墳群」の一つ。玉手山古墳群は14基の前方後円墳と数基の円墳から構成されていますが、築造時期が異なる古墳も含まれており、1号墳から10号墳までを玉手山古墳群とする場合もあります。古墳名の順番は立地に由来し、北から南にかけて1号墳から14号墳というルールで名付けられています。

そんな訳で、玉手山3号墳をブラブラと見ていきます。玉手山3号墳は、およそ3世紀後半に築造された前方後円墳。玉手山古墳群の中では2番目に古く築造された古墳です。古墳の規模についてはよく分かっていませんが、全長約110mではないかと考えられています。

玉手山は、開発により山全体が住宅地となっています。住宅地にある古墳は、住宅と接している事が多いのですが、玉手山3号墳は「宗教施設」と「老人福祉センター」に囲まれるという謎の状況。特に宗教施設が前方部へかなり食い込み、かなり削られています。

玉手山3号墳

残された部分も壁と茂みに囲われており、近づくこともできません。後方部から登れるかと思いましたが、完全に茂み祭りでした。

玉手山3号墳

この玉手山3号墳は「勝負山古墳(かちまけやまこふん)」という別名を持ちます。由来は、大坂夏の陣において玉手山付近で繰り広げられた「道明寺の戦い」。この戦いでは、山を巡り豊臣方の後藤基次と徳川方により激戦が繰り広げられました。

最終的に、徳川方が後藤基次を打ち破ったことから「勝負山」と名付けられたようです。大阪市にある「御勝山古墳」も大坂夏の陣で徳川秀忠が本陣を置き、勝利を祝して岡山から御勝山に変更されています。徳川方としては、よほど豊臣方を打ち破るのに苦労したのでしょう。

ちなみに玉手山には後藤基次や徳川方の武将の墓など、大坂夏の陣ゆかりの史跡がいくつか残されおり、玉手山3号墳の近くにも戦場地の石碑も置かれていました。

玉手山3号墳

そんな道明寺の戦いゆかりの玉手山3号墳ですが、後円部は整備されて上ることができます。老人福祉センターの脇に後円部に登る階段があるので、そこから後円部の頂上に行くことができます。

玉手山3号墳

まあまあの茂みに囲まれた階段を登って頂上に行ってみると・・・

玉手山3号墳
玉手山3号墳

完全に茂み祭りでした

整備された古墳でこれほど茂みに囲まれた古墳は珍しいかもしれません。多分、草木がキレイに刈り取られたら、西に古市古墳群が一望できるはずなので残念なところ。

見回してみるとベンチと小さなテーブルも置いていましたが、ここでくつろぐ人はいるのでしょうか…

玉手山3号墳

玉手山3号墳の埋葬施設は、レーダー探査により竪穴式石室が存在すると推定されています。実は、同じ玉手山にある安福寺の境内には石棺の蓋が保存。長らく寺の手水鉢として利用されていましたが、サイズ的に玉手山3号墳のものではないかと考えられています。

安福寺の竹割形石棺

石棺の石材は香川県の鷲ノ山産の凝灰岩を使用し、同様の石棺は四国の前期古墳に多くみられるとのこと。近畿においては、京都の八幡茶臼山古墳と、大阪の二本木古墳から同様の石棺が出土しています。

石棺は、四国で加工されて大阪まで運ばれてきたと考えられており、古墳の被葬者が四国の豪族と強いつながりがあったことがうかがえます。

ちなみにこの石棺は、1990年6月29日に国の重要文化財に指定。玉手山3号墳は、貴重な石棺が安置されていた古墳かもしれないという訳で、史跡の価値は高いのかもしれません。ただ、古墳自体は、茂みしかありませんが。そんな訳で、茂みばかり激写していても仕方ないので、とりあえず帰ることにしました。

まとめ

玉手山3号墳

壮大な茂みに宗教施設が食い込んでいる、なかなかカオスな古墳でした。下から見ても、上って見ても茂みしか見えないという訳で、茂みファン必見の古墳ではないでしょうか。

そんな訳で、玉手山3号墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、前方後円墳と宗教施設と茂みが一体化した古墳を紹介します。

玉手山3号墳詳細

古墳名玉手山3号墳
別名勝負山古墳
住所大阪府柏原市旭ケ丘1丁目9−15
墳形前方後円墳
全長約110m
高さ不明
築造時期3世紀末
被葬者不明
埋葬施設推定:竪穴式石室と粘土槨
出土物円筒埴輪片
参考資料・柏原市ホームページ
・案内板
・玉手山3号墳発掘調査報告書(1989年7月)

案内板(玉手山3号墳)

玉手山の丘陵には、古墳時代前期(今から一七〇〇~一六〇〇年前)の前方後円墳が一〇基以上も造られており、玉手山古墳群と呼ばれています。北から三番目にある玉手山三号墳は、この付近が大坂夏の陣の舞台となったことから、勝負山古墳とも呼ばれています。
玉手山三号墳は、全長約一〇〇メートルの前方後円墳で、後円部に竪穴式石室と粘土槨という二つの埋葬施設があったといわれていますが、副葬品など詳しいことはわかっていません。また、安福寺境内にある割竹形石棺は、この玉手山三号墳から出土したと伝えれています。
一九八八年に、後円部墳頂のレーダー探査を実施したところ、長さ三.三メートル前後の竪穴式石室が存在することが推定されました。そして、その石室の大きさから、割竹形石棺が、伝承どおり、この竪穴式石室から出土した可能性が高くなりました。割竹形石棺は、香川県の鷲ノ山というところの石材で造られたものであり、玉手山三号墳に埋葬された人物が四国となんらかの関りをもっていたのではないかt考えることができます。
また、これまでに採集されている埴輪片は、非常に古い特徴をもつもので、玉手山三号墳は、古墳時代前期でも、かなり早い時期に築かれた古墳であると考えられます。
二〇〇一年三月
柏原市教育委員会

案内板(割竹形石棺蓋)

重要文化財
割竹形石棺蓋
安福寺
この石棺蓋は、竹を割ったような形から割竹形石棺という名で呼ばれ、古墳時代前期の玉手山3号墳から出土したものと伝えられています。同様の形態の石棺は、多くは四国の前期古墳から出土し、近畿地方では京都府八幡茶臼山古墳の舟形石棺と大阪府二本木山古墳の割竹形石棺が知られています。石材は香川県の鷲ノ山産の凝灰岩を使用して製作したもので、口縁部に日本独自に発達した直線と弧線を組み合わせた幾何学模様の直弧文と呼ぶ線刻が施されています。
安福寺の石棺は、独自に創作した祭祀性の強い直弧文によって装飾し、古墳時代前期における畿内政治勢力の優位性を背景にした被葬者の性格や古墳築造の思想を知る貴重な資料です。
平成7年3月
柏原市教育委員会

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