川合大塚山古墳|上れる巨大前方後円墳〜奈良県河合町〜

川合大塚山古墳

はい、今回は奈良県河合町にある「川合大塚山古墳」を紹介します。川合大塚山古墳は、全国でも数少ない古墳内に上れる巨大前方後円墳なんです。

上ることができる古墳と聞いたからには、登らないわけにはいきません。という訳で、奈良県河合町にある「川合大塚山古墳」に行ってきました。

上れる竹藪古墳

川合大塚山古墳のある、奈良県河合町に来ております。ちなみに正式名称は「大塚山古墳」ですが、全国に同じ名前の古墳がいくつもあるので、俗称の「川合大塚山古墳」と表記しています。

河合町にある大塚山古墳なので「河合大塚山古墳」でいいのではと思いますが、河合町川合にあるので「川合大塚山古墳」のようです。川合大塚山古墳は、奈良の三大古墳群である「馬見古墳群」の一つで、その中の「北群」に所属。周辺には7基の古墳が存在し、川合大塚山古墳を含め「大塚山古墳群」と呼ばれています。

川合大塚山古墳

川合大塚山古墳は、全長197m(215mという説も)の前方後円墳。河合町最大の古墳にして、全国でも23位の規模を誇ります。つまりメチャクチャデカい古墳。

川合大塚山古墳

川合大塚山古墳から1kmほど西には、「島の山古墳」が存在しています。川合大塚山古墳と同じ墳形規格が用いられており、川合大塚山古墳と島の山古墳には、関係性があったと考えられています。

川合大塚山古墳

川合大塚山古墳の特徴は、古墳に登れるという点。川合大塚山古墳の規模で、中に登れる古墳は数基しかありません。

という訳で、周囲を歩きながら古墳に登ってみたいと思います。まずは、古墳の西側からみてみましょう。川合大塚山古墳の濠は、ほとんど畑になっていますが、全体的に良好な姿で残されています。また西側だけですが、水も湛えられて濠の面影を残しています。

川合大塚山古墳

こちらが古墳南側の前方部。ここは濠もかなり広いのですが、水はなく畑となっています。

川合大塚山古墳

西も南も茂みに覆われており、登る場所が分かりません。ただ東側に墳丘へ続くあぜ道があり、こちらから中に登れるようです。

川合大塚山古墳

あぜ道の脇に、わりと新しい注意看板が建てられていました。内容は、古墳内のものを「こわさない」「持ち去らない」、「タケノコを掘らない」等と記載されています。墳丘を見ると、注意看板がいたるところに貼られていました。

川合大塚山古墳

ここまで注意喚起しているのは、かつて起きた「円筒埴輪持ち去り事件」が理由と思われます。
2020年4月27日、墳丘の一部が掘り返されて円筒埴輪が持ち去られる事件が発生。後日、1本は破片の状態で、もう1本は接着剤で接合された状態で元に戻されていました。

文化財保護法違反で捜査していましたが、後にタケノコ狩りをしていた地元の子供と保護者によるものと判明。全国のニュースにもなり、一時話題になりました。おそらく、その事件の影響で、注意書きが張られまくっているのでしょう。

そんな訳で、注意書きがやたら貼られた墳丘内へ登っていきます。

川合大塚山古墳

ちなみに訪問日は大寒波ということもあり、ところどころに雪が残っていました。当然こんな日に古墳へ来る人などおらず、周りには私しかいません。

川合大塚山古墳

枯れた大量の笹と雪を踏みしめながら前方部へ。冬なので歩けていますが、夏場は雑草とかで来るのは無理でしょう。登れる古墳ときくと整備された古墳を想像しますが、こんな鬱蒼とした茂みとはなかなか思いません。

前方部には、巨大な石碑が建てられています。これは「大元帥陛下駐蹕之處」といい、1908年11月13日に明治天皇がこの場所から陸軍大演習を視察した記念に建てられたとのこと。

川合大塚山古墳

明治天皇が観兵した場所に石碑が建てられるケースは時々みられます。小高い場所ということで古墳が選ばれこともあり、同様のパターンとして帝塚山古墳にも、明治天皇に関する石碑が建てられていました。もしかしたら明治天皇は古墳ファンなのかもしれません。

ちなみに墳丘は竹が大量に生えているため、前方部からの眺望はほぼゼロ。明治天皇と同じ気分を味わおうと思いましたが、全力で竹藪でした。とりあえず道も何もありませんが、後円部に向かいます。ちなみに埴輪持ち去り事件は、古墳のくびれ部分から掘り返されたようです。

川合大塚山古墳

川合大塚山古墳からは円筒埴輪の他に、朝顔形、家形、蓋花壇、盾形、人物などの象形埴輪が出土。埴輪の種類から5世紀後半に築造されたと考えられています。

倒れた竹やら枯れた笹と格闘しながら、後円部に到着。一角にロープで囲われている窪みがありました。埋葬施設は調査されていないので不明ですが、この窪みの下に竪穴式石室があると考えられています。

川合大塚山古墳


川合大塚山古墳の被葬者は、わかっていません。この一帯は、周辺の川が集まり大和川を形成するという川運における要衝でした。また持ち去られた円筒埴輪を調べた結果、3隻の船の絵が描かれていることが判明しています。この点より川合大塚山古墳の被葬者は、河川交易をしていた集団の長ではないかと考えられています。

またこれほど巨大な前方後円墳であることから、大和王権とも強いつながりがあったのではないでしょうか。ちなみにこちらが後円部からの眺めになります。とりあえず竹祭りでした。お疲れ様でした。

川合大塚山古墳

そんな訳で、竹ばかり見ていても仕方がないので、とりあえず帰ることにしました。

まとめ

川合大塚山古墳

今回は奈良県河合町にある「川合大塚山古墳」を紹介しました。中に登れる巨大古墳ということで、登ってみると、大量の竹と枯れ笹を堪能させてもらいました。竹と枯れ笹を見たくて仕方がない人には絶好の古墳といえるでしょう。

という訳で、川合大塚山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、竹と枯れ笹に覆われた登れる古墳を紹介したいと思います。

川合大塚山古墳詳細

古墳名川合大塚山古墳
住所奈良県北葛城郡河合町川合
墳形前方後円墳
一辺197m(215m)
高さ16.4m
築造時期5世紀後半
被葬者不明
埋葬施設竪穴式石室(推定)
出土物円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、人物埴輪、土師器、須恵器
国の指定史跡1956年12月28日
参考資料・案内板
・大和葛城の大古墳群 馬見古墳群(河上邦彦氏) 

案内板

大塚山古墳は前方部を南に向けた前方後円墳で、墳丘の長さは197m、後円部直径108m、公園部高15.8m、前方部幅110m、前方部高16.4mを測り、河合町で最大の古墳です。墳丘は三段に築かれており、墳丘の周囲には濠と堤が巡り、最近の発掘調査で堤の外側にも濠状の地形が巡ることがわかってきました。周濠の幅はくびれ部で49m、後円部北側で35m、前方部側で39mです。堤の幅は20mで、外側の濠状遺構の幅は約15mです。
後円部墳頂には窪地があり、かつて石材も散乱していたことから、埋葬施設は不明ですが竪穴式石室と推定されます。また、前方部墳頂には明治40年(1908)に行われた軍隊の大演習に際し明治天皇が野立所となったことを示す石碑が建てられています。
遺物としては埴輪、土師器、須恵器があります。埴輪は円筒埴輪の他に、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、人物埴輪が知られています。出土した埴輪の特徴などから5世紀後半(約1550年前)に造られたと思われます。
被葬者は不明ですが、大和川の水運と密接な関わりをもった人物と考えられます。
県道を挟んで西側にある九僧塚古墳は大塚山古墳の主軸に並行する一辺30mほどの方墳で、大塚山古墳に伴って計画的に配置された副葬品埋葬用の墳丘と考えられます。
近くにある城山古墳や高山塚1号墳(中良塚古墳)など計8基の古墳が「大塚山古墳群」の名称で国指定史跡に指定されています。
河合町観光ボランティアの会

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