はい、今回は大阪府柏原市にある「玉手山7号墳(たまてやまななごうふん)」を紹介します。玉手山7号墳は、前方部に徳川家康の孫の墓が建つ、ゴージャス墓被せ古墳です。
古墳の上に高貴な人の墓を被せてきたと聞いたからには、見に行かざるを得ません。そんな訳で、大阪府柏原市にある「玉手山7号墳」へ行ってきました。
玉手山7号墳とは
玉手山7号墳のある、大阪府柏原市に来ています。玉手山7号墳のある玉手山には、10基以上の古墳から構成される「玉手山古墳群」が存在。1、2、3、7、8、9号墳の6基が現存し、その内1、2、3、7号墳に入ることができます。
そんな訳で、玉手山に登り玉手山7号墳へ。玉手山は住宅地として開発されており、山と言っても道はきれいに整備されています。歩きやすいのですが、やはり山なので坂がキツくかなりヘビー。
歩いていると郵便ポストが中央分離帯に置かれていました。そこそこ広い道なので端に置けば良さそうですが、なんでこんな所に置いたのでしょう…
謎の郵便ポストを後に、山の上へ登っていくと玉手山公園が存在します。かつてこの場所には、近鉄の子会社が運営する「玉手山遊園地」が存在しました。関西では人気の遊園地でしたが、来場者の減少により1998年に閉園。翌年の1999年に柏原市が玉手山公園として整備し今に至ります。
公園のゲートをくぐると、すぐ目の前に玉手山7号墳が現れます。といってもただの斜面にしか見えず、案内板がなければ古墳とは気づかないでしょう。
玉手山7号墳は、4世紀前半から中頃に築造された全長110mの前方後円墳。調査により墳丘の裾には、大型の石を根石として葺石を配を置していたことが分かっています。出土した埴輪や遺物の特徴から、玉手山7号墳は、玉手山古墳群では終盤に築造された古墳とのこと。
後円部は上ることができ、墳頂には宝匡院塔が建てられています。これは、大坂夏の陣の戦死者を供養するために建てられたもの。
玉手山では、大坂夏の陣において「道明寺の戦い」が繰り広げられました。豊臣方の後藤基次が玉手山で戦死した他、徳川方で戦死した奥田忠次は、玉手山1号墳に墓が建てられています。
この宝匡院塔を建てたのが、玉手山にある安福寺の僧「珂憶上人(かおしょうにん)」です。安福寺は、行基により開基されたと伝わる由緒あるお寺でしたが、江戸時代にはすでに荒廃していました。それを再建したのが珂憶上人といわれています。
そんな宝匡院塔のある後円部には、中心部に大きな墓坑と、墓坑の南西に粘土槨が確認されています。墓坑内には、石材や粘土が確認されなかったため「石棺直葬」と考えられています。ただ墳頂に板状の石材が散乱していたことから、竪穴式石室の可能性もあるとのこと。
南西の粘土槨は、保存状態がよく粘土槨を覆う礫や板石、排水溝が存在。こちらは、木棺が納められていたと考えられています。遺物としては、滑石製の合子(蓋付きの小さな容器)の蓋と身が出土。他にもいくつかの土師器壺が見つかっています。
前方部を北側から降りると、移設された竪穴式石室と石棺が保管されていました。この竪穴式石室は、玉手山7号墳のすぐ北側に存在した「玉手山6号墳」のもの。玉手山6号墳は造成により消滅しましたが、竪穴式石室は良好な状態で残っていたため、こちらに移設保存。ちなみに玉手山6号墳には、かつてすべり台が設置されており「すべり台古墳」の別名があります。
竪穴式石室の隣にある凝灰岩製の組合式家形石棺は、玉手山7号墳から少し北に存在した「東ワカ山古墳」から移設保存されたもの。玉手山においては、古墳時代前期の古墳が多いのですが、東ワカ山古墳は古墳時代後期に築造されています。位置的には、玉手山5号墳のすぐ横に存在しましたが、築造時期が異なることから玉手山古墳群には含まれていません。
竪穴式石室と石棺のすぐ隣には、玉手山で戦死した「後藤又兵衛基次の碑」が建てられています。他にも後藤又兵衛のしだれ桜や、小林一茶の句碑やら史跡が盛り沢山にありますが、見きれないので玉手山7号墳の前方部へ行くことに。
後円部から前方部の間にはフェンスに遮られており、直接行くことができません。前方部は安福寺の墓地にあるため、一度玉手山公園からでて、安福寺を経由して行く必要があります。つながっていれば10秒で行けるのですが、大きく迂回するため、前方部へ行くために15分ほどかかることに。
ちなみに安福寺は、古墳時代後期に築造された「安福寺横群」や玉手山3号墳から出土したとされる「割竹形石棺蓋」がよく知られています。
玉手山古墳群の前方部は、安福寺墓地の一番奥に存在し、この階段を登ったところが前方部になります。後円部の直径に対して狭い幅を持つ前方部で、古墳時代前期の特徴を有しています。ただ見た感じでは、どこからどこまでが前方部になるのかはよく分かりません。
上り切ったところにはお墓が建てられており、3基の宝篋印塔が建てられています。中央の宝筐院塔が「徳川光友」の墓。向かって手前が側室の「松寿院」の墓、一番奥が息子の「松平義昌」の墓となっています。
徳川光友は、徳川家康の9男である徳川義直の息子。つまり家康からみると孫にあたる人物になります。徳川光友は御三家の一つ、尾張藩2代目の藩主。名古屋を本拠とした尾張藩主の墓が、柏原市にあるのには理由があります。
安福寺が再建される前、尾張藩主の徳川光友は、修行の旅を続けていた珂憶上人と出会い、深い帰依を受けます。その後、珂憶上人が安福寺を再興する際には、徳川光友と相談しながら行ったとのこと。その後、安福寺は徳川光友の菩提寺となりこの地に葬られることになったようです。
徳川光友亡き後も、尾張藩は明治になるまで寄付を続けたとのこと。ちなみに後方部は徳川光友の墓があるため発掘調査が行われておらず、埋葬施設の有無や遺物については全く分かっていません。
それにしても後円部から前方部に行くだけで、こんなにもアップダウンが激しい行程を歩いたのは初めてです。7月の炎天下で歩いていましたが、墓地の一番奥で倒れたら誰も助けてくれないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪府柏原市にある「玉手山7号墳」を紹介しました。古墳時代の偉い人の墓に、江戸時代の偉い人の墓を建てるという、高貴な墓被せ古墳でした。ただ、そんなことよりも後円部と前方部がつながっていないことが予想外で、後円部に行くために迷いまくったことのほうがインパクト大でした。
という訳で、玉手山7号墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、高貴な人の墓の上にまた高貴な人の墓を建てた古墳を紹介します。
玉手山7号墳詳細
古墳名 | 玉手山7号墳 |
別名 | 後山古墳 |
住所 | 大阪府柏原市旭ケ丘1丁目17−20 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 110m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 4世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 粘土槨 |
出土物 | 滑石製合子、滑石製小型丸底壷、土師器直口壺、円筒埴輪、家形埴輪 |
参考資料 | ・案内板 ・玉手山7号墳の発掘調査 ・前方後円墳集成(近畿編) |
案内板
玉手山七号墳
玉手山の丘陵には、古墳時代前期(今から1700~1600年前)の前方後円墳が10基以上も造られており、玉手山古墳群とよばれています。その中で、もっとも大きいのがこの玉手山7号墳で、全長は150メートルくらいあります。
前の小高い丘が前方後円墳の後円部にあたり、西側の安福寺境内に低い前方部がのびています。発掘調査を行っていないため、詳しいことはわかっていませんが、後円部に薄い板のような石を積み上げて造られた竪穴式石室があったと考えられています。
1980年には、後円部で滑石製の盒子が採集されました。盒子とは容器のことで、長さ10センチ、幅8センチの小さい楕円形をしています。これによって玉手山七号墳は、玉手山古墳群の中でもっとも新しい前方後円墳の一つであることがわかります。
現在は、後円部に、大坂夏の陣の戦没者に対する供養として建てられた宝篋印塔が建っています。
2000年3月
柏原市教育委員会