はい、今回は奈良県三宅町にある「高山古墳(たかやまこふん)」を紹介します。三宅町の古墳の多くは、削平されて原形をとどめていません。この高山古墳も道路によって削られたという、ワイルドな古墳に仕上がっています。
そんな道路に削られたワイルドな古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。という訳で、奈良県三宅町にある「高山古墳」へ行ってきました。
高山古墳とは
高山古墳のある、奈良県三宅町に来ています。高山古墳は、川西町・田原本町・三宅町にまたがる「三宅古墳群」の一つ。
一般的に古墳は丘陵地や尾根などに造られますが、三宅古墳群は盆地中央部の低湿地帯に築造されたのが特徴。5世紀後半から6世紀前半に築造され、100m以下の小型の前方後円墳で構成されています。
前方後円墳は、大和王権につながりが深い人物に用いられたと考えられています。三宅町一帯は、かつて大王の直轄地「屯倉(みやけ)」が置かれており、三宅古墳群の被葬者は、屯倉を管理した役人の墓と考えられています。
そんな訳で、三宅古墳群を巡りながら、高山古墳にやってきました。道の脇に、高山古墳への標識が置いてありますが、事前にどこが高山古墳なのかを把握していないと茂みしかないので分からないでしょう。
三宅古墳群は田んぼの中にポツンと存在する古墳が多いのですが、珍しく高山古墳は道路脇にある古墳でした。
全力で茂ってますね
夏場に訪れたのもありますが、これでもかというぐらいの茂み。三宅古墳群の中では他の追随を許さないレベルの茂み古墳といえます。
高山古墳は、全長51mの前方後円墳。前方部を東に向け、周囲には幅約12mの盾形の周濠が存在していました。築造時期は不明ですが、5世紀末頃に築造されたと考えられています。
国土地理院の地図を見ると、1960年代までは比較的良好な姿で周濠も残っていました。しかし70年代の道路工事により北側の周濠と後円部の一部が削平されたようです。
道路建設の際に円筒埴輪が見つかっており、築造時には墳丘に埴輪が並べられていたようです。ただ、本格的な発掘調査が行われていないため、詳しいことは分かっていません。
こちらが北側から見た高山古墳。案内板が無ければ、絶対にただの茂みにしか見えません。ちなみに三宅町は、小さな古墳にも丁寧に案内板を設置しているのですが、ほとんど感想みたいな内容。
こちらが後円部ですが、問答無用の茂みとなっています。墳丘上部はかつて果樹園になっていたらしく、かなり削平されています。そのため、おそらく埋葬施設は失われているとのこと。
なんとなく周濠に沿って丸くあぜ道が通っている所が、唯一古墳らしい特徴なのかもしれません。現在、果樹園は存在しないようですが、放置されており茂り放題。色々と古墳ブログを見ていると、中に入った方もいらっしゃるので、もしかしたら冬場はもう少し茂みが少ないのかもしれません。
そんな訳で、割と交通量の多い道なので、謎の茂みを激写していると視線を感じるので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県三宅町にある「高山古墳」を紹介しました。情報が少なく、どこが古墳で、どこがただの茂みなのか全く分からない古墳でした。三宅町は古墳を観光資源にと考えているらしいですが、現在のままでは茂みファンしか引き寄せることは難しいでしょう。今まで茂みファンに会ったことがないので分かりませんが。
という訳で、高山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、道路に削られた茂み古墳を紹介します。
高山古墳詳細
古墳名 | 高山古墳 |
住所 | 奈良県磯城郡三宅町伴堂 |
墳形 | 前方後円墳 |
全長 | 56.5m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 5世紀末 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 円筒埴輪片 |
参考資料 | ・案内板 ・前方後円墳集成 近畿編 |
案内板
高山古墳
南畑より小柳に至る中間にある前方後円墳である。北辺の道路工事のおり、円筒埴輪の破片がたくさん出土したことから、円筒埴輪列をめぐらせていたとも推定される。
三宅町教育委員会