はい、今回は奈良県安堵町にある「高塚古墳(たかつかこふん)」を紹介します。この高塚古墳ですが、あの聖徳太子が鷹を埋めた伝説が残る古墳として知られています。
そんな聖徳太子が鷹を埋めてしまったかもしれない古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。という訳で、奈良県安堵町にある「高塚古墳」へ行ってきました。
高塚古墳とは
高塚古墳のある、奈良県安堵町に来ています。安堵町は、奈良盆地のほぼ中央部に位置。かなり小さい町で、大阪府忠岡町、奈良県三宅町に次いで全国で3番目に小さい町とのこと。
この安堵町には、聖徳太子が斑鳩宮から明日香まで行き来したと伝わる「太子道」が通っていました。そのため安堵町を含め周辺には、聖徳太子にまつわる史跡がいくつか存在します。安堵という町名も、「聖徳太子が法隆寺の近くまでたどり着き『安堵』した」ということが由来との説もあります。
安堵町は有名な観光地ではありませんが、なぜか大きな観光用の駐車場が整備されていました。古墳巡りは、車を停める場所に悩むので助かります。
駐車場から高塚古墳へ向かう途中「飽波神社(あくなみじんじゃ)」が存在します。この飽波神社の前を「太子道」が通っており、境内に「太子の腰かけ石」なるものがあるということで寄ってみることに。
安堵町史によると、飽波神社は聖徳太子による創建と伝わっています。聖徳太子が夢で東方に五色の雲がたなびき霊剣が現れるのをみて、素盞嗚尊が牛頭天王となって顕現したと思い、飽波宮に牛頭天王の祠を建てたのが由来とのこと。そんな聖徳太子ゆかりの神社の一角に「太子の腰かけ石」がありました。
なぜか聖徳太子がいました
いや、石より聖徳太子のインパクトが強過ぎるでしょう。ちなみに後ろにいる2人は弟と息子だと思われます。一説には、聖徳太子が愛馬「黒駒」に乗り、斑鳩から明日香へ向かう途中、この石に腰を掛け休憩したと伝わっています。それにしても聖徳太子さん、全力で脱力しすぎではないでしょうか。ちなみに後ろ姿は怖かったです。
少し脱力気味な聖徳太子ファミリーから、5分ほど歩いた所に高塚古墳が存在します。
現在、安堵町に残る古墳は、この高塚古墳のみ。しかし安堵町に残る古い地図には「崩塚」「平塚」「昼塚」などの地名が記されていることから、かつて町内には複数の古墳が存在したと考えられています。
高塚古墳は円墳と考えられていますが、築造時期、規模、外部施設等については不明。南西が大きく削られており、少しいびつな形をしています。
墳丘上には祠が建てられており、完全に失われずにすんだのは、この祠のおかげかもしれません。
墳丘には、埋葬施設に使用したと思われる石がいくつか見ることができます。ただかなり削平されているので、埋葬施設は消滅しているかもしれません。
被葬者については不明ですが、地元では2つの言い伝えが残されています。
・鷹狩りをした殿様の鷹を埋めた
・聖徳太子の飼っていた鷹を埋めた
どちらの説も鷹にまつわるエピソードとなので、古墳名は「鷹塚」でいいのではないかと思いますが、何故「高塚」なのかはよく分かりません。
聖徳太子には、自分の愛馬や、犬に殺された鹿を埋葬した徳の高さを表すエピソードがあります。馬や鹿を埋めているなら、もしかしたら鷹も埋めてるかもしれません。いや多分、普通に地元有力者の墓だとは思いますが。
そんな訳で、鷹が埋められているかも知れない謎の盛り土を激写していましたが、ちょうどこの場所は信号があり車がよく止まります。車の運転手に「コイツ何を撮ってるんや?」という熱い視線を複数浴び続けるのが辛くなってきたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県安堵町にある「高塚古墳」を紹介しました。鷹にまつわる古墳ですが、名前は高塚という謎の古墳でした。聖徳太子ゆかりの古墳ということで、太子の腰掛け石と合わせて見ると、聖徳太子パワーが得られるかもしれません。聖徳太子パワーが何かは知りませんが。
そんな訳で、高塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、聖徳太子が何かを埋めたかもしれない古墳を紹介します。
高塚古墳詳細
古墳名 | 高塚古墳 |
別名 | 無し |
住所 | 奈良県生駒郡安堵町東安堵1536−3 |
墳形 | 円墳 |
全長 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 不明 |
被葬者 | 伝:鷹? |
埋葬施設 | 不明 |
石室規模 | 不明 |
出土物 | 不明 |
指定文化財 | 無し |
参考資料 | ・安堵町史 ・案内板 |
案内板
高塚(古墳)
大きなせんだんの木がありましたが、昭和28年台風により倒れました。この木の根元の南側に大石があり、この下にむかしタカ狩りをした殿様のタカを埋めてありタカ塚になったとも、聖徳太子のかわいがられたタカを埋めたともいわれています。
安堵町