はい、今回は大阪府堺市にある「鈴山古墳(すずやまこふん)」を紹介します。鈴山古墳は、44基の古墳で構成される百舌鳥古墳群の一つですが、世界文化遺産に登録されている23基には含まれていません。
鈴山古墳は、反正天皇陵の陪塚(付属墳)ということもあり、宮内庁が管理する古墳となっています。写真で見ると空き地の盛り土にしかみえませんが、実際に行ってみても空き地の盛り土にしか見えません。そんな訳で、宮内庁が管理する空き地の盛り土を確認するべく、大阪府堺市に行ってきました。
空き地にある盛り土でした
鈴山古墳のある、大阪府堺市に来ています。百舌鳥古墳群の範囲はかなり広いため何回かに分けて訪問していますが、今回は北部の田出井山古墳(反正天皇陵)を中心に回っています。
鈴山古墳は、南海堺東駅から徒歩10分ほどの場所に存在。鈴山古墳から30mほど西には田出井山古墳が存在していることから、鈴山古墳は田出井山古墳の陪塚(付属墳)と考えられています。
田出井山古墳は宮内庁より、仁徳天皇の次男にあたる「反正天皇陵(はんぜいてんのうりょう)」に治定。しかし田出井山古墳が反正天皇陵かについては、時期や規模の点から疑問を持たれています。
田出井山古墳は全長148mと、仁徳天皇陵(525m)の1/3しかありません。また築造時期も仁徳天皇陵と田出井山古墳は、ほぼ同じ時期に作られていることから、田出井山古墳の被葬者は反正天皇である可能性は低いと考えられています。
鈴山古墳から少し北にある「天王古墳」も反正天皇陵の陪塚と考えられています。他にも1基あったようですが、開発により消滅したとのこと。仁徳天皇陵には十数基の陪塚が存在するにも関わらず、田出井山古墳には3基ほどしかないことを考えると、この時期の大王墓としては規模が小さいようです。
そんな訳で、駅からブラブラと10分ほど歩き鈴山古墳に到着。いかんせん宮内庁の管理する古墳ということで、情報がほとんどありません。ただ宮内庁管理の古墳にしては珍しく案内板が設置されており、鈴山古墳の概要を知ることができます。ちなみに鈴山古墳という名前の由来は不明。山は分かるんですが、鈴はどこから出てきたのでしょうか。
鈴山古墳の周囲は宮内庁が管理するため、フェンスに囲まれており中に入ることはできません。フェンス越しにのぞいてみましたが、完全に空き地にある盛り土。
背伸びしながらフェンス越しに謎の盛り土を撮影している姿は怪しさ爆発ですが、気にせず激写。ただ必死に撮影しても、空き地にある盛り土にしか見えません。
鈴山古墳は、5世紀中頃に築造された一辺22mの方墳と考えられています。発掘調査が行われていないため、埋葬施設や被葬者は不明。ただ、田出井山古墳と築造時期が近く距離も近いため、田出井山古墳の被葬者に近い人物の墓と考えられます。
鈴山古墳の西側で行われた発掘調査では、田出井古墳の外濠や円筒埴輪が出土。しかし鈴山古墳の濠は検出されなかったようです。
こちらが鈴山古墳の北側。もちろん、こちらから見ても空き地にある盛土にしか見えません。お疲れ様でした。
そんな訳で、住宅地のど真ん中にある盛り土の周りをウロウロしていると怪しさ抜群なので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪府堺市にある「鈴山古墳」を紹介しました。グルッと一周してみましたが、どこからどうみても宮内庁が管理する空き地にある盛り土でした。
例によって中に入れず、情報も少なく、見どころが全くないのですがが、空き地にある謎の盛り土を見たくて仕方がないという人には、オススメの古墳ではないでしょうか。
そんな訳で、鈴山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、宮内庁が管理する空き地にある盛土を紹介します。
鈴山古墳詳細
古墳名 | 鈴山古墳 |
宮内庁名 | 飛び地い号 |
住所 | 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁4 |
墳形 | 方墳 |
直径 | 22m |
高さ | 3m |
築造時期 | 5世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
国の指定史跡 | 1988年6月15日 |
出土物 | 不明 |
参考資料 | ・案内板 |
案内板
鈴山古墳は、反正天皇陵古墳の東側にあり、近くにある天皇古墳とともに反正天皇陵と関わりのある古墳(陪塚)と考えられています。鈴山古墳の西側で行われた発掘調査では、反正天皇陵古墳の外濠や円筒埴輪が見つかりましたが、鈴山古墳の濠は見つかっていません。
鈴山古墳の周辺には北三国ケ丘遺跡が広がっており、発掘調査では中世の溝や墓が見つかっています。これらの遺構はかつてこのあたりにあり、後に反正天皇陵古墳の北側に接する方違神社へ合祀移転された向井神社に関連する遺構と考えられます。