はい、今回は奈良県王寺町にある「達磨寺古墳群(だるまじこふんぐん)」を紹介します。
達磨寺の境内には、1号墳~3号墳で構成された「達磨寺古墳群」が存在します。実は達磨寺古墳群には、聖徳太子にまつわる恐るべきシステムが搭載されていることが判明。そのシステムを確認するべく、達磨寺古墳群に調査に向かいました。
達磨寺は聖徳太子ゆかりの寺らしい
達磨寺古墳群のある奈良県王寺町に来ています。王寺町という地名は聖徳太子の建立した「片岡王寺」に由来するようで、王寺町自体が聖徳太子ゆかりの町として知られています。
そんな王寺町のゆるキャラが、聖徳太子が飼っていた犬がモデルの「雪丸くん」です。言い伝えによると雪丸は人の言葉を理解し、お経も唱えたそうです。恐怖しかないですね。
そんなスーパードッグの雪丸は、ここ達磨寺に埋葬されたとのこと。そんな訳で、入口には雪丸くんがお出迎えしてくれます。
もしかしてお経を唱え出したらどうしようかと思いましたが、幸い無言でした。
達磨寺は日本書紀にある「片岡山伝説」を由来としています。
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
達磨寺ホームページより
そんなわけで、この達磨寺も聖徳太子とゆかりの深いお寺でもあります。
本堂の立つ場所は古墳だった
山門をくぐり、境内に入ると中央に巨大な本堂がそびえ建ちます。
達磨寺は、鎌倉時代に興福寺に焼かれ、戦国時代に松永久秀に焼かれるなど、幾度も存亡の危機にあっています。そのたびに復興され現在まで続いていますが、この本堂は2004年に新しく建てられたもの。
実はこの本堂こそが達磨3号墳が存在した場所でした。現在は消滅してなにもありませんが、平安時代には「達磨大師の塚」と信じられていたようです。
発掘調査によると、もともとは横穴式石室を有する直径約16mの円墳でした。13世紀に入ると、なぜか古墳は魔改造されて、宝篋印塔が納められた土塔にされています。
その後、この場所に本堂が建てられることになり、現在は達磨3号墳の姿を見ることはできません。
スーパードッグ雪丸像
本堂の西側に、いくつかの史跡が置かれていたので見てみましょう。一つ目は花崗岩製の「雪丸像」。もともとは達磨1号墳の上に置かれていたそうですが、現在はこちらに移されています。江戸時代には存在したそうですが、製作者は不明。
ゆるキャラ化されている雪丸君は愛嬌がありますが、リアル雪丸は虚無的な顔をしています。幸いなことにお経を唱えだすことはありませんでした。ちなみに雪丸は臨終の際に、達磨塚の近くに埋葬するように遺言を残したとのこと。いや、遺言を残す犬とか怖すぎです。
片岡八郎&片岡春利の墓
スーパードッグ雪丸像の隣にあるのが「片岡八郎」と「片岡春利」の墓です。
片岡八郎は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した武将。片岡家は代々、王寺町一帯を支配していた土豪で、片岡八郎は、後醍醐天皇が討幕のために挙兵した際、大塔宮護良親王を守って十津川にて討死しています。
もう一人の片岡利春は戦国時代に活躍した武将。片岡家は代々、大和国の有力豪族である筒井家と、強いつながりを有していました。片岡利春も、筒井順慶の妹婿として筒井家の有力武将として活躍しました。
松永久秀が大和国に勢力を伸ばしてくると、片岡利春は筒井側として片岡城にて抵抗。しかし片岡城は落城し、片岡春利は落ちのびたあと病死。亡骸が達磨時に葬られたと伝わっています。
応仁の乱から戦国時代にかけての大和国はかなり修羅場だったらしく、多くの土豪が没落しています。片岡家も松永久秀が死亡した後に復活していますが、筒井家と関係が悪化したため帰農。武士のとしての片岡家は消滅しています。
なぜか松永久秀の墓
片岡八郎&片岡春利の隣には、なぜか「松永久秀」の墓が存在します。信貴山城の戦いで、織田信忠と筒井順慶に責められた松永久秀は自害。その後、筒井順慶はその亡骸を達磨寺に葬ったとのこと。
松永久秀は信長に反旗を翻した謀反人ですが、こうして墓が作られたというのは大和国において強い影響力を持っていたということなんでしょう。ただ、墓はこれ以上ないぐらいシンプルですが。
しかし松永久秀の墓の隣は、久秀によって没落した片岡春利の墓があり緊張感が漂います。というか、達磨寺も松永久秀に燃やされてなかったでしたっけ・・・
達磨1号墳、2号墳へ
他にも聖徳太子と転生した達磨大師が問答した場所や、達磨大師が杖をついたら一夜で竹林ができたという場所やらいろいろあるんですが、キリがないので本命の古墳に向かいます。
本堂の裏手にあるのが「達磨1号墳」。墳頂には、小祠が建てられるなどの魔改造が施されていました。
もともとこの古墳に先ほどの雪丸像が置かれており「雪丸塚」とも呼ばれています。達磨寺1号墳は、6世紀末に築造された直径15mほどの円墳で、横穴式石室を有しています。
石室中に入ると、こちらでも何かが祭られていました。自然石を組み合わせた横穴式石室で、石室内からは組合せ箱式石棺の一部や、須恵器が出土したそうです。
ちなみにこの1号墳は「この穴を通って聖徳太子が法隆寺・達磨寺間を行き来していた」との伝承が残されています。
いやいや、達磨寺から法隆寺は、まあまあ遠いですよ!!
見た感じ完全にただの横穴式石室なんですが、ワープゾーンにでもなっているのでしょうか?隠し扉かワープの起動装置を探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。聖徳太子おそるべし。
ちなみにこちらが2号墳。みた感じ「茂み」&「盛り土」が全開です。
こちらも同じく6世紀末に築造された円墳で、横穴式石室を有しています。ただ、発掘調査が行われていないため、詳細は不明。なんとなく勘が働いて、墳丘にのぼって調べてみると横穴式石室が一部露出していました。
だから何だといわれても困るんですが、ただの盛り土を見るよりはやや興奮できます。とにかく見どころが多すぎておなか一杯になったので、次の目的地である孝霊天皇陵に向かいました。
まとめ
今回は奈良県王寺町にある「達磨古墳群」を紹介しました。由緒ある寺ということもあり、見どころが多く、かなり楽しむことができます。古墳目当てに達磨寺へ行く人は少数派とは思いますが、古墳から法隆寺にワープできる可能性もあるので、ぜひ古墳も見ておきたいところです。
という訳で、達磨寺古墳群の紹介はこの辺で。次回はまた別の、法隆寺へワープできる古墳を紹介します。
達磨古墳群詳細
古墳名 | 達磨寺古墳群 |
住所 | 奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目1 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 15m |
高さ | 4m |
築造時期 | 6世紀末 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
参考資料 | 案内板 |
達磨寺古墳群詳細
境内には3基の古墳があり、達磨寺古墳群と呼ばれている。いずれも6世紀末ごろに築造された15m程度の円墳であり、横穴式石室をもっている。1号墳の石室内には組合せ箱式石棺の一部が残っており、須恵器や玉類、鉄鏃が出土した