はい、今回は大阪府寝屋川市にある「太秦18号墳(うずまさじゅうはちごうふん)」を紹介します。この太秦18号墳ですが、高速道路の上に復元されたという珍しい古墳です。
高速道路建設で、移設保存されるケースはたまにありますが、高速道路の上に移設復元されるケースはこの太秦18号墳ぐらいかもしれません。という訳で、高速道路の上に復元されたという古墳を確かめるべく、大阪府寝屋川市にある「太秦18号墳」へ行ってきました。
太秦18号墳とは
太秦18号墳のある、大阪府寝屋川市に来ています。「太秦(うずまさ)」と聞くと、京都の映画村を思い浮かびますが、寝屋川市にも太秦という地名が存在します。
太秦の由来は、4世紀頃に百済から日本に渡来したといわれる「秦氏(はたうじ)」に関係します。秦氏は、織物、土木などの技術に長けた一族でした。そのため税を布や絹で納めており、納めた品がうず高く積み上げていたことから、朝廷から「兎豆満佐(うずまさ)」という姓を与えたといわれています。
一説によると、拠点を表す「太」という漢字を当てはめ、「秦氏の拠点」ということで「太秦」になったとの説も。本拠地は現在の京都市の太秦一帯でしたが、この寝屋川市にも土地を有していたとの記録があります。古くから太秦という地名で呼ばれていることから、寝屋川市の太秦一帯も、秦氏の領地だったと考えられています。ちなみに、聖徳太子と共に活躍した「秦河勝」の墓と伝わる五輪塔が、寝屋川市に残されています。
そんな太秦一帯には、小向ヒ塚、廻し塚など小字が多数ある他、周辺からは、鉄鏃、埴輪、木棺などが多数出土。周辺には多くの古墳が存在したことから、「太秦古墳群」と呼ばれています。ただ大半の古墳は消滅し、現在は太秦高塚古墳のみが保存されています。

ということで、寝屋川市の古墳を巡りながら、太秦18号墳へ。太秦18号墳は、太秦高塚古墳から谷を挟んだ南側の丘陵地に存在。この丘陵の真下には、大阪府門真市から京都市を結ぶ「第二京阪道路」が走っています。
高速道路建設に伴う発掘調査により、周辺から25基の古墳が発見。この古墳群は、太秦古墳群「尾支群」と名付けられました。尾支群は、1基の円墳を除き全て方墳。全体的に小型の古墳で構成され、尾根に沿って築造されていました。ただ発見時から全て墳丘は失われており、原型を留めていなかったとのこと。
現在は25基のうち18号墳の1基が、元の場所より少し東側の公園内に復元されています。ちなみに、この公園の真下を第二京阪道が貫いており、高速道路の真上に古墳が保存されています。

太秦18号墳の保存された「みどりの丘さくら公園」は、丘陵地にあるということで、なかなかの坂道を上る必要があります。

そんな中、炎天下で倒れそうになりながら坂道を上り、太秦18号墳に到着。

まあまあの地面ですね
これを一目見て古墳と見抜いた人は、おそらくエスパーでしょう。四角い地面の周りを四角い溝が巡るという謎の地面。案内板によると、盛り土をして復元したと記載されているので、これが築造時の姿だったようです。

太秦18号墳は、5世紀前半に築造された、1辺9mの方墳。遺物は少なく、周溝南隅から須恵器甕片が出土したのみ。埴輪が見つかっておらず、築造時から存在しなかったと考えられています。尾支群の25基の中でも埴輪が出土した古墳は、8、17号墳の2基のみ。おそらく、祭祀に埴輪を用いない一族だったのかもしれません。埋葬施設は、墳丘がかなり削られており不明。周辺から石材などが見つかっていないことから、木棺を直葬したのかもしれません。

すぐ北に築造された太秦高塚古墳は直径37mを測り、平坦部と造出しには埴輪が並べられていました。一方の尾支群の古墳は、小型で埴輪もほとんど用いられていません。この点から尾支群の被葬者達は、首長より下位にあたる有力一族の墓ではないかとも考えられています。
というわけで、公園で四角い溝を激写していると色々な視線を感じるので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は、大阪府寝屋川市にある「太秦18号墳」を紹介しました。高速道路の上に復元されたという珍しい古墳ですが、元の姿が不明なためか、四角い溝があるだけという謎の姿。案内板がなければ、古墳と気づく人は少ないかもしれませんが、四角い溝ファンの人には必見の古墳ではないでしょうか。
そんなわけで、太秦18号墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、高速道路の上に復元された古墳を紹介します。
太秦18号墳詳細
| 古墳名 | 太秦18号墳 |
| 別名 | なし |
| 住所 | 大阪府寝屋川市 国道1号線 |
| 墳形 | 方墳 |
| 一辺 | 9m |
| 高さ | 不明 |
| 築造時期 | 5世紀前半 |
| 被葬者 | 不明 |
| 埋葬施設 | 不明 |
| 石室全長 | 不明 |
| 指定文化財 | なし |
| 出土物 | 須恵器甕片 |
| 参考資料 | ・案内板 ・太秦遺跡・太秦古墳群2 |
案内板
太秦遺跡のある丘陵上では、「~塚」 「~山」の 地名が残っており、以前に埴輪や須恵器をはじめ鏡・鉄刀など古墳に関わる遺物が採集されています。 また、近年の住宅開発等に伴う発掘調査で、数箇所で古墳の周濠と思われる遺構も検出されており、大阪市水道局豊野浄水場横に存在する太秦高塚古墳 (市指定史跡)以外にも、多数の古墳が存在したと 考えられていました。
第二京阪道路建設に伴う財団法人大阪府文化財センターの発掘調査では、25基の小型の古墳が密集して見つかりました。 多くの古墳は、一辺が10m程度で上から見ると四角い形の古墳(方墳)です。 いずれの古墳も、後世の造成工事等によって、墳丘 (盛土部分)は失われており、死者を埋葬した部分 (埋葬施設・主体部)は不明です。埴輪が見つかっているのは2基の古墳だけで、お供え用と考えられ ある土器だけが見つかった古墳は16基あります。 一方、土器や埴輪が出土しなかった古墳も7基見つ かっています。 太秦高塚古墳とほぼ同時期の、古墳時代中期 (5世紀)に築かれたと考えられます。近くにある太秦高塚古墳 (造り出しをもつ円墳 直径37m) では多数の埴輪が出土しており、ここで見つかった小規模な古墳とは規模や内容から大きな違いが認められます。こうした古墳に葬られた人々は、 太秦高塚古墳の被葬者より社会的に低い階層の人々だと想像できます
今回復した古墳は、調査地西側で見つかった18号墳 (一辺約9mの方墳)をもとに、盛土部分を 復元して築かれた当時の状態を再現しました。
寝屋川市教育委員会
