はい、今回は奈良県平群町にある「西宮古墳(にしのみやこふん)」を紹介します。
美しい石室を持つことで知られる西宮古墳は「山背大兄王(やましろのおおえのおう)の墓」との説があります。山背大兄王は、聖徳太子の息子で、蘇我入鹿に攻められて自害した皇族として知られています。
そんな訳で、西宮古墳が本当に山背大兄王の墓なのかを確かめるべく、奈良県平群町へ行ってきました。
島左近の城に造られた古墳
西宮古墳のある、奈良県平群町に来ています。今回は、家族で平群町にある「道の駅大和路へぐり」に寄り、有名な「古都華いちご」を買いに行くという口実でやってきました。道の駅周辺を散歩していると、偶然、古墳が見つかるという完璧な計画です。
ちなみに噂の古都華いちごは、まさかの1パック1000円超えという衝撃のプライス。倒れそうになったので、見つめるだけにしました。
そんな訳で道の駅でのミッションを終え、散歩と称して西宮古墳のある「平群中央公園」へ。古い町並みを歩いていると、平群神社という小さな神社がありました。平群神社は、延喜式神名帳に記載された由緒ある式内社。
創建の由来は不明ですが、当地を治めた「平群氏」が祖神を祀るために建てたと考えられています。平群氏は武内宿禰を祖とする一族で、同族に葛城氏、蘇我氏、紀氏などを持つ名族。平群町にある古墳は、平群氏に関わるものも多いようです。
平群神社から少し西に歩き、平群中央公園に到着。この公園は丘陵地となっており、かつては「西宮城」が築かれていました。西宮城は東側に流れる竜田川を天然の堀とした要害で、筒井氏の重臣「島氏」が居城としていました。
島氏は、戦国時代に「島左近」の名で知られる島清興が特に有名ではないでしょうか。現在は城の痕跡は残っておらず、公園に整備されています。ちなみに平群町のゆるキャラは、島左近がモデルのようです。しぶいチョイスですね・・・
そんな訳で、平群中央公園の入口近くにある西宮古墳へ。何だかよく分からない盛り土に走り出した父親をみて、家族も全てを察したようです。
西宮古墳は、7世紀中頃〜後半に築造された一辺36mの方墳。墳丘には貼石が施され、周濠を有していたとのこと。
すでに盗掘を受けているため、出土品は少ないのですが、須恵器の杯蓋、高杯片が見つかっています。
西宮古墳の特徴は何と言っても、切石を用いた精巧な石室。埋葬施設は、全長14mの両袖式横穴式石室。現在開口部がむき出しになっていますが、築造時から扉状の施設によって閉塞し、墳丘外に見えるようにしていたようです。
石室内に入ると、珍しく石棺まで残されていました。刳抜式家形石棺で兵庫県産の竜山石を使用。当時の竜山石は高級石材とされており、皇族や有力豪族など身分の高い人物に使用されるものでした。
西宮古墳の被葬者の候補者として「山背大兄王」が挙げられています。山背大兄王は聖徳太子の息子で、斑鳩宮を本拠地とする皇族。山背大兄王は、推古天皇の後継候補の一人でしたが、対立候補を擁する蘇我入鹿に斑鳩宮を攻められ自害しています。
現在のところ、山背大兄王の墓は不明ですが、斑鳩町にある「富郷陵墓参考地」が宮内庁により山背大兄王の陵墓参考地に比定されています。
ただ富郷陵墓参考地は、出土した埴輪の種類から4世紀後半~5世紀前半に築造されたと考えられています。山背大兄王とは200年以上の開きがあり、富郷陵墓参考地が山背大兄王の墓である可能性は、ほぼありません。
西宮古墳が山背大兄王はの墓と考えられる根拠として、古墳の南にある椿井・西宮遺跡が挙げられています。椿井・西宮遺跡からは、直径42㎝もの柱の根元が出土。このような太い柱は飛鳥の宮殿や寺院でしか使用しておらず、この遺跡は「上宮王家(聖徳太子の弟や子息)の別荘」「高安城の関連施設」「平群郡衙(ぐんが)」等の諸説が考えられています。
西宮古墳は、7世紀中頃〜後半に築造されたということもあり、山背大兄王の墓としては不自然ではないようです。
石室を出て、古墳上部を見てみると謎の祠が祭られていました。西宮古墳は石室と合わせて、昔から信仰の対象にもなっていたようです。
じっくりと美しい石室を見ようかと思いましたが、家族が呆れて先に行きだしたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
島左近の居城にある山背大兄王の墓かもしれない「西宮古墳」を紹介しました。山背大兄王の墓なのかは不明ですが、切り石を用いた精巧な石室を見るに、かなり高貴な人物が埋葬されていたのは間違いないようです。
という訳で、西宮古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、山背大兄王の墓かもしれない古墳を紹介します。
西宮古墳詳細
古墳名 | 西宮古墳 |
住所 | 奈良県生駒郡平群町西宮1丁目8−4 |
墳形 | 方墳 |
一辺 | 36m |
高さ | 7.2m |
築造時期 | 7世紀中頃〜後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
石室規模 | 全長:約14m 玄室の長:約3.6m 幅:約1.8m 高さ:約1.8m |
出土物 | 須恵器の杯蓋、高杯片 |
県の指定史跡 | 1956年8月7日 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
この古墳は、廿日山(はつかやま)丘陵に築かれた三段築成の方形墳である。墳丘は一辺約36mの正方形で墳丘高は正面で7.2m以上あり、本来の高さは約8mと思われる。墳丘正面は約35度の勾配で、墳丘全体と東側周溝底には貼石がほどかされている。
墳丘の東西と北側は台形状に大きく掘削され周溝をめぐらせている。横穴式石室は南方に開口し、玄室は墳丘中央部に位置する。石室は切石を用いた精美なもので平群町越木塚で産出する石材によって築かれ、石室床面は墳丘二段目のテラス面に合わせている。石室の全長は約14mで玄室の長さ約3.6m、幅・高さが約1.8mである。
石室内部に収められていた刳り抜き式の家形石棺は棺蓋が失われ棺身のみであるが兵庫県産の竜山石で製作されたものである。石棺の長さは224cm、幅115cm、高さ76cmである。石室前方緒の墓道より須恵器の杯蓋、高杯片が出土している。7世紀の中頃から後半の築造と考えられ、平群谷を代表する終末期の古墳として重要である。
平成11年11月:奈良県教育委員会