はい、今回は奈良県斑鳩町にある「三井岡原古墳(みついおかはらこふん)」を紹介します。三井岡原古墳は、宮内庁により「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」の墓の可能性のあるとして「富郷陵墓参考地」に治定された古墳。
ただ三井岡原古墳は、4~5世紀に築造された古墳のため、山背大兄王の墓である可能性はほぼありません。果たして三井岡原古墳は誰の墓なのか?そんな訳で、三井岡原古墳の謎を探るべく、奈良県斑鳩町へ行ってきました。
山背大兄王とその滅亡まで
山背大兄王の父は聖徳太子、母は蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)を持つ皇族。推古天皇が崩御すると、蘇我蝦夷が推す田村皇子と、蝦夷の叔父である境部摩理勢が推す山背大兄王は、皇位を巡り対立を深めます。
情勢は蘇我蝦夷に優位に展開し、山背大兄王は皇位継承を辞退し、田村皇子が即位(舒明天皇)。後に境部摩理勢は、蘇我蝦夷に殺害され、聖徳太子一族である上宮王家は大きな後ろ盾を失ってしまいます。
舒明天皇が崩御すると、後継者が決まっていなかったため皇極天皇が中継ぎとして即位。皇極天皇の次代の天皇として、山背大兄王は有力な後継者候補でした。しかし蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿は、舒明天皇の息子である古人大兄皇子を推していました。
山背大兄王が古人大兄皇子擁立の障害となると考えた蘇我入鹿は、643年12月3日、100ほどの軍勢で山背大兄王の本拠地である斑鳩宮を襲撃。山背大兄王や一族は、生駒山に逃げ込みますが抵抗を断念し、斑鳩寺にて自死を選びました。
山背大兄王の母である刀自古郎女は、蘇我入鹿からみると叔母にあたります。つまり蘇我入鹿と山背大兄王は従兄弟関係にあたります。ただ、古人大兄皇子も蘇我入鹿の従兄弟にあたるため、蘇我入鹿としては山背大兄王より、若く操りやすい古人大兄皇子を推したのかもしれません。
斑鳩寺で山背大兄王とその一族が自死したため、聖徳太子直系一族はここに断絶することになりました。
三井岡原古墳(富郷陵墓参考地)とは
三井岡原古墳のある、奈良県斑鳩町に来ています。三井岡原古墳は斑鳩町東部に位置し、周辺には法起寺や法輪寺など山背大兄王ゆかりのお寺が存在します。という訳で、三井岡原古墳に行く前に法輪寺に寄ってみることにしました。法輪寺は斑鳩北部「三井(みい)」の地にあることから「三井寺」とも呼ばれています。
法輪寺の創建については2つの説が伝えられています。
・推古30年(622)に聖徳太子が病気になった際、山背大兄王が太子の病気平癒を願って建立されたという説
・天智9年(670)の斑鳩寺焼失後に、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が建立した説
発掘調査などにより7世紀末には建立されていたことが分かっていますが、現在のところ上記2説のうちどちらが正しかったのかは分かっていません。
三井岡原古墳が山背大兄王の陵墓参考地とされたのは、法輪寺や法起寺に近いことが理由の一つかもしれません。法輪寺を出ると南東方面に目を向ける小さな小高い山があります。この丘は「岡の原」と呼ばれており、三井岡原古墳は、岡の原の頂上に存在。
927年に編纂された延喜式「諸陵式」によると山背大兄王の墓は「平群郡北岡墓」と記されています。三井岡原古墳が山背大兄王の陵墓参考地とされたのは、この地が平群群に含まれ「岡」の字が含まれている。そして地元に山背大兄王の墓との伝説が残っていることが大きな理由のようです。
という訳で古墳のある山に突入しようと思いますが、山の古墳はそれなりに下調べをしないと、とんでもないルートを行く羽目になります。
事前調査でも藪を乗り越えて到達したとの記事があり少し恐れていましたが、詳しく調べた結果、マトモなルートがあることを発見。とりあえずその情報を頼りに、山へ突入します。まず岡の原の北側にあるコンクリートで舗装された道から山に向かいます。途中から舗装された道がなくなりますが。気にせずそのまままっすぐ木々の間を進みます。
雨上がりでヌカるんだ道を登ると二又に道が分かれます。直進の方が道が整備されて行きやすいのですが、正解は左の竹やぶ方面。
少し歩くと巨大な小山があり、これが三井岡原古墳になります。もちろん周囲にはだれもおらず、訪問しているのは私だけ。
三井岡原古墳は宮内庁が管理する為、柵に囲われており中に入ることはできません。
陵墓参考地なので遥拝所はありませんが、宮内庁の「富郷陵墓参考地」と書かれた案内板があります。
冒頭にも書きましたが三井岡原古墳は、出土した埴輪の種類から、4~5世紀に築造された円墳と考えられています。山背大兄王が活躍した7世紀とかけ離れている上、この時代には丘陵地の頂上にこのような円墳を築くことが無かったとのこと。
宮内庁も三井岡原古墳を陵墓参考地としていますが、資料によると宮内庁もあまり自信は無かったようです。現在、山背大兄王の墓の有力候補として、お隣の平群町にある「西宮古墳」が挙げられています。
西宮古墳は7世紀中頃〜後半に築造された古墳で、山背大兄王が亡くなった時期と重なります。また古墳の規模や精巧な石室の造りからも、高貴な人物の墓であったことも理由の一つとされています。では三井岡原古墳の被葬者は誰かという訳ですが、発掘調査が行われておらず情報が全くありません。
ただ三井岡原古墳から400mほど南には、古墳時代前期に築造された駒川古墳や調子丸古墳などが存在します。このことから三井岡原古墳の被葬者も、一帯を本拠地とした豪族の墓なのかもしれません。とりあえず古墳の周りをグルっと一周してみましたが、小山と木と枯れ葉しか見えません。本当にお疲れ様でした。
寂しい山で中に入れない謎の小山を激写していても仕方ないので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県斑鳩町にある「三井岡原古墳(富郷陵墓参考地)」を紹介しました。山背大兄王の墓であることがほぼ否定された古墳ですが、情報がなく中に入れず古墳自体も見どころが全くないという素敵な古墳でした。人里離れた寂しい山にある古墳が見たくて仕方がないという人には、オススメの古墳といえるでしょう。
という訳で、三井岡原古墳(富郷陵墓参考地)の紹介はこの辺で。次回はまた別の、皇族の墓と思わせて実は違う古墳を紹介したいと思います。
三井岡原古墳(富郷陵墓参考地)詳細
古墳名 | 三井岡原古墳 |
宮内庁名 | 富郷陵墓参考地 |
住所 | 奈良県生駒郡斑鳩町三井204 |
墳形 | 円墳 |
全長 | 30m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 4~5世紀 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 円筒埴輪片 |
参考資料 | 案内板 |
案内板
地元で岡の原と呼ばれているこの丘陵は、聖徳太子の皇子・山背大兄王の墓所と伝えられ、現在、宮内庁の富郷陵墓参考地となっています。
山背大兄王は、法輪寺・法起寺を建てたとされ、太子の後継者として皇位継承をめぐって田村皇子(のちの舒明天皇)と争われたといいます。
皇極2年(643)11月に斑鳩宮が蘇我入鹿の軍勢に攻められ、太子一族:は滅びました。大化の改新の2年前の出来事でした。