はい、今回は奈良県天理市にある「峯塚古墳(みねづかこふん)」を紹介します。峯塚古墳は、奈良を代表する巨大石室を持つ古墳ですが、竹林と融合した竹祭り古墳なんです。
竹林と融合した古墳と聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、奈良県天理市にある「峯塚古墳」へ行ってきました。
峯塚古墳とは
峯塚古墳のある奈良県天理市に来ております。今回は峯塚古墳の近くにある道の駅に車を停め、徒歩で古墳へ。峯塚古墳は、東から延びる丘陵の南斜面に築造されています。わりと山の中に存在するため、かつては訪問困難な古墳だったとのこと。
近年周辺が少し整備が進み、比較的訪れ易くなったという訳でやってきました。峯塚古墳は、周辺10基以上の古墳で構成される「杣之内古墳群」に属しています。杣之内古墳群は、古墳時代前期~後期にかけて断続的に築造された古墳群。その中でも古墳時代後期に築造されたのが、峯塚古墳です。
そんな訳で峯塚古墳へ歩いていると、明らかに怪しい盛り土を発見。こちらは保昌塚古墳ですが、詳しいことは分かっていません。調査しやすい場所にありますが、天理市は古墳の数が多いので調査の手がまわらないのでしょう。
保昌塚古墳から少し歩くと、峯塚古墳に続く脇道に、案内板が設置されています。古墳が多い町ということで、なかなか詳細な案内板が設置されていました。
田畑の広がる農道を少し歩くと、左側に謎の建物を発見。石の壁に石の屋根をのせた建物ですが、表面をすべて黒色にぬられており、かなりのインパクト。ちなみに調べても情報がなく、全く謎の建物でした。
さらに丘陵地の方へ歩いていくと六地蔵と呼ばれる祠があり、祠の手前を右に曲がったところに峯塚古墳へ続く道があります。
峯塚古墳への道の手前には柵が巡らされていますが、これは猪よけのなので、開けて進みます。
柵をくぐると、林と柵の間を細い道がしばらく続きます。
細い道を抜けると竹林が広がっており、この辺りから道があやふやな感じに。ウロウロしていると全然違う方向に行っていたようで、迷いそうになりました。
気を取り直して竹林をかき分けながら歩いていると、竹林のスキマから峯塚古墳を発見。
完全に竹林と一体化
墳丘の周りだけでなく、墳丘上にも大量の竹が生えています。竹の成長は早いといいますが、整備されなかったら数年で竹林に飲み込まれてしまいそうな勢い。
峯塚古墳は、7世紀中頃に築造された直径35.5mの円墳。3段に築造されており、最上段は、凝灰岩質砂岩の切石を用いてレンガのように覆っていたようです。残念ながら物凄い勢いで墳丘に竹が生えており上段に近づくことができませんでした。
発掘調査によると古墳の周囲には濠が巡らされていた可能性があるとのこと。ただ見た感じでは、その気配は感じられません。
埋葬施設は南側に開口した横穴式石室を有しています。こちらが玄室に続く羨道。平たく加工された切石が精緻に組み合わされて、高い技術力を感じさせます。
一般的にむき出しになっている石室は羨道が破壊されているケースが多いのですが、峯塚古墳は比較的良好に羨道が残されています。
続いて石室内に入ってみます。玄室は、長さ4.46m、幅2.58m、高さは2.4mということでかなり広い空間となっています。大人が立っても全然余裕のある高さ。天井石には巨石を用いており、かなりの迫力があります。ちなみに早い段階で盗掘を受けたらしく、内部は空っぽ。石棺や副葬品など、遺物は見つかっていません。
これほど巨大で精緻な石室ですが、被葬者は分かっていません。この一帯は物部氏の本拠地でしたが、物部氏本家は587年に蘇我氏により滅ぼされています(丁未の乱)。
ただ本家以外の物部氏は存続しており、7世紀に「石上氏(いそのかみうじ)」として勢力を維持しています。名前から分かるように、石上神社一帯を本拠としていたようで、時代的に峯塚古墳は石上氏の墓ではないかと考えられています。
なかなか見ごたえのある石室ですが、人里離れた巨大な石室に一人でいるとなんだかとても寂しくなってきたのでとりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、奈良県天理市にある「峯塚古墳」を紹介しました。巨大で精緻な石室が見事な古墳でしたが、竹林に浸食されまくっており完全に竹と一体化した古墳でした。竹林と石室が融合した古墳が見たくて仕方がない人には垂涎の古墳といえるでしょう。私はできれば竹がない状態で見たいですが。
という訳で、峯塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、石室と竹林が一体化した古墳を紹介します。
峯塚古墳詳細
古墳名 | 峯塚古墳 |
住所 | 奈良県天理市杣之内町196 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 35.5m |
高さ | 5m |
築造時期 | 7世紀中頃 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室 |
出土物 | 無し |
参考資料 | ・案内板 ・天理の古墳100 |
案内板
峯塚古墳は、杣之内町に所在する古墳試合終末期の古墳です。東方から延びる尾根の南側に位置し、南向きに開口する横穴式石室を有しています。墳丘は3段に築かれており、各段の裾の調査は下段から順に35.5m、28.4m、17.6m、墳丘の高さ約5mあります。墳丘上段の葺石は凝灰岩質砂岩の長方形の切石をレンガのように葺いたもので、中段・下段には径約5㎝程度の円礫が葺石のように用いられていました。墳丘の周囲には周濠が巡っていた可能性も指摘されています。
横穴式石室は全長11.11mの大きなもので、羨道の入り口付近を除くと築造当時の姿をよくとどめています。玄室の長さは4.46m、奥壁幅2.58mで、天井石までの高さは2.4mあります。玄室に使用される石材は、大きなものでは幅約4.5m、高さ1.2mにおよび、2段構成で玄室の天井石を支えています。いずれの石材にも丁寧に加工された切石が用いられており、古墳時代終末期の横穴式石室の特徴を示しています。
石室内は早い時期に盗掘されたらしく、副葬品や棺に関する手掛がかりは残っていませんでしたが、石室の特徴から見て7世紀に築造された古墳と考えられています。同じ杣之内町内に所在する塚穴山古墳とともに、大和の古墳時代終末期を代表する古墳の一つに数えられます。
2009年3月天理市教育委員会