はい、今回は大阪府茨木市にある「海北塚古墳(かいほうつか古墳)」を紹介します。市街地にある古墳ですが、周囲だけが畑となっており、畑の奥の茂みにヒッソリと残されています。
市街地にあるにも関わらず、畑の奥の茂みに古墳があると聞いたからには、見に行かずにはいられません。そんな訳で、大阪府茨木市にある「海北塚古墳」へ行ってきました。
海北塚古墳とは
海北塚古墳のある、大阪府茨木市にきています。茨木市は、府内では高槻市に次いで古墳が多く存在するエリアで、特に「太田茶臼山古墳(継体天皇陵)」は、全長226mを誇る巨大前方後円墳として知られています。

この茨木市から高槻市にかけては、500基以上の古墳が築造され、「三島古墳群」と称されています。三島古墳群は、古墳時代前期から終末期にかけて約400年間にわたって古墳が築造され続けており、淀川水系を基盤とした多様な集団の存在を示しています。
海北塚古墳一帯は丘陵地となっており、紫金山古墳、青松塚古墳、南塚古墳など複数の古墳が存在します。というわけで周辺の古墳を巡りながら、海北塚古墳へ。海北塚古墳は、青松塚古墳のある「ほうせんか病院」の南側に存在。周囲は市街地ながら、古墳の周辺だけは畑が広がっています。

ほうせんか病院を北に少し歩いて行くと、歩道の脇に「海北塚古墳」と刻まれた石柱が置かれていました。どうやらこの先の農道から、海北塚古墳へ行けるようです。


Googleマップの口コミでは、周囲が竹林や茂みに覆われて近づくのが難しいとの情報がありました。しかし現地に到着すると、奇跡的に茂みが伐採されており、広々とした状態で整備されていました。

海北塚古墳は、6世紀後半に築造された円墳と考えられています。封土は既に失われていますが、直径25m、高さ1mの高まりを残していることから、本来はこれ以上の規模を有していたと推測されます。


ということで、埋葬施設を見ていきましょう。海北塚古墳の埋葬施設は、西向きに開口する左方袖式の横穴式石室。横穴式石室の開口部は南向きが一般的ですが、西向きの開口は非常に珍しいケース。

石室は昭和南海地震の影響により半壊しており、開口部の天井石が崩れています。しかし、奥壁側の天井石が抜き取られているため、内部の様子を確認することができました。石室の規模は、玄室長4.2m、羨道の現存部分で5.7mあり、全長10m超という大型石室に分類されます。

石材には花崗岩が用いられていますが、全体的に丸みを帯びています。この地域は河川が多いため、河原石を利用して築造されたと考えられています。玄室には6個の緑泥片岩で作られた箱式石棺が置かれているそうですが、この上から見える丸みを帯びた石材が石棺なのでしょうか。

石室内には笹が生い茂り、崩れた石材が散乱していましたが、何とか内部に入ることができました。奥壁側から開口部を眺めると、左方袖式の構造がよく分かります。

出土遺物としては、石室内だけでなく墳丘内からも須恵器、金環、銅環、銀製鍍金の勾玉、山しょう玉、金銅製三輪玉、金銅製座金具、刀身片、白銅質人物獣帯鏡などが出土。貴重な副葬品が多く出土していることもあり、1970年に大阪府指定史跡に指定されています。
これらの遺物が古墳の築造時に埋められたものなのか、後世に何らかの目的で埋められたものなのか、あるいは古墳とは直接関係がないのかは分かっていません。

被葬者については不明ですが、海北塚古墳は規模の大きな独立墳であることから、古墳時代後期において、南塚古墳や青松塚古墳に続く首長墓と考えられています。
そんな訳で、石室をグルグル激写したり中に入ったりしていたのですが、遠くから畑を耕しているおじいさんから熱い視線を感じたので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ

今回は大阪府茨木市にある「海北塚古墳」を紹介しました。藪漕ぎを覚悟していましたが、ビックリするほど簡単に訪れることができホッとしました。石室はかなり崩れていますが、丸みを帯びたユニークな姿は、一見の価値があるのではないでしょうか。
そんな訳で、海北塚古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、藪漕ぎ必至かと思いきや意外と簡単に行けた古墳を紹介します。
海北塚古墳詳細
古墳名 | 海北塚古墳 |
別名 | 無し |
住所 | 〒567-0067 大阪府茨木市西福井1丁目19 |
墳形 | 円墳 |
全長 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 6世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 横穴式石室(左片袖式) |
石室全長 | 10m超 |
指定文化財 | 大阪府の史跡:1970年 |
出土物 | 須恵器、金環、銅環、銀製鍍金の勾玉、山しょう玉、金銅製三輪玉、金銅製座金具、刀身片、白銅質人物獣帯鏡 |
参考資料 | ・案内板 ・わがまち茨木 古墳編 |
案内板
府史跡海北塚古墳 北摂山地から延びる段丘上の南端に位置する古墳です。明治42年(1909)に須恵器、金環、銅環、勾玉、鏡、山梔玉、座金具、刀子、三輪玉が出土し、内部に箱式石棺をもつ横穴式石室であることから、注目を集めました。昭和10年(1935)には須恵器、土師器、環頭太刀・鉄鉾・鉄鏃の武器類、轡・杏葉・雲珠・鞍金具などの馬具類が見つかったほか、出土した須恵器は古墳時代後期の須恵器編年の標識資料として位置づけられました。 墳丘は現在、大きさ二五程度、高さ一強の不整形の高まりが残っており、これ以上の規模であったことは間違いありません。石室は昭和南海地震で損壊したものの、大型の横穴式石室であることがうかがえます。海北塚古墳は古墳時代後期における三島西部の首長墓系譜である南塚古墳、青松塚古墳に続く首長墓であり、地域の歴史を考えるうえで重要な古墳です。