はい、今回は大阪府堺市にある「定の山古墳(じょうのやまこふん)」を紹介します。定の山古墳は、44基の古墳で構成される百舌鳥古墳群の一つですが、世界文化遺産に登録されている23基には含まれていません。
定の山古墳は公園として整備されていますが、中世においては城に魔改造されていました。またこの古墳は「深井の合戦」の舞台でもあり、3万近い軍勢が激突した場所でもあります。
とくにツッコミどころが少ない正統派公園古墳ですが、深井の合戦を交えながら紹介したいと思います。
古墳から城へ、城から公園へ
定の山古墳は「城の山公園」内に存在。「定の山」と同じ読み方ですが漢字が異なっています。その理由として、この場所には「東村砦」と呼ばれる城があったことが理由とのこと。
東村砦は「細川両家記」における「深井の合戦」に登場。1507年に管領である細川政元が暗殺されると、跡目を巡り澄元、澄之、高国の3人が争う「永正の錯乱」が勃発。深井の戦いは、その中で起こりました。
3名の跡目争いおいては、細川澄之は早々に戦死。その後、澄元と高国が激しく戦っていましたが、高国側が戦局を優位に運んでいました。
阿波国で京都奪還をうかがっていた細川澄元は、同族の細川政賢を大将として7千~8千の軍勢で和泉国へ侵攻。上陸した澄元軍は堺市中区にあった「深井城」に入城しました。
深井城も古墳を改修した城だったようで、かつて堺市中区にあった「観音山古墳」がその候補に挙げられています。対する高国側は摂津衆2万を派遣し、東村砦と西村砦に布陣。この東村砦が「定の山古墳」と考えられています。
ちなみに西村砦も古墳だったらしく、定の山古墳の500mほど西にあった「城の山古墳」だったともいわれています。紛らわしいのですが、読み方が異なる別の古墳古墳。
ちなみに深井の合戦は、澄元側が空城の計を用いて高国軍を撃破。澄元は京都奪還の足掛かりを築きますが、高国を攻め切ることはできず、後年失意のまま病死しています。
正統派公園古墳
という訳で、深井の合戦の舞台である「定の山古墳」に到着しました。百舌鳥古墳群は44基もありますが、実は上れる古墳は定の山古墳を含めて2基しかありません。その点においても貴重な古墳といえるでしょう。まあ、そんなにも古墳に上りたい人がいる訳ではないですが。
定の山古墳一帯は、土師ニサンザイ古墳を中心とした小型古墳が点在しています。定の山古墳と土師ニサンザイ古墳の築造時期は、同じ5世紀前半と考えられていますが、関係は不明。
定の山古墳は、1968年から始まった区画整理事業により後円部の半分以上と後方部が破壊。また、濠の跡もあったようですが、こちらも同時に消滅しています。
その後、公園として保存されるようになったため、前方部に盛り土をしたとのこと。公園を上部から見ると古墳っぽい輪郭を形成していますが、もともとの輪郭とは異なっているようです。
公園名に入るとチビッ子たちが遊んでいましたが、そこそこ広い公園なのでギリギリ激写できそうです。
公園入口の左側には、立派な石碑が建てられています。こちらは区画整理事業完成を記念した石碑のようで、古墳の姿をしています。だから何だといわれても困るんですが、古墳公園らしいといえばそうかもしれません。
定の山古墳は、全長69mの帆立貝形古墳。帆立貝形古墳は、前方部が極端に小さくなった前方後円墳の変形版。帆立貝形古墳とも、帆立貝形前方後円墳ともいわれ、独立した形なのか前方後円墳の亜種なのかは、人により解釈が異なるようです。
かつて墳丘には葺石が敷かれ円筒埴輪が並べられていたことが分かっています。また濠からは朝顔形円筒埴輪や家形埴輪の他、須恵器の壺なども出土。
埋葬施設は不明ですが、前方部が掘削された際に、粘土廓が見つかったともいわれています。ただ詳しいことは分かっていません。
この辺りが前方部。区画整理事業以前より封土はすでに失われていましたが、公園として整備される際に盛り土されています。ただし、元の形ではないとのこと。
後円部には階段が設置。公園魔改造部分といえばここぐらいで、比較的自然な形で保存されています。
階段には、なぜか縄跳びが落ちてました。こんな動きにくい場所で誰が縄跳びなんてしてたのでしょうか・・・
こちらが後円部になります。なぜか墳頂までは階段が設置されておらず、上までは自力で登る必要があります。公園らしく芝生で覆われており、暖かい時期には気持ちがいいかもしれません。ただ訪問時は真冬だったため、寒くて死ぬかと思いました。
墳頂から眺めると、周囲を一望できるかというと・・・まあまあ高い建物が多いので一望できるかというとそうでもありませんでした。
オッサンが風か吹きすさぶ中、公園の丘で激写し続けているのも怪しさ抜群だったので、とりあえず帰ることにしました。
まとめ
今回は、大阪府堺市にある「定の山古墳」を紹介しました。古墳から城へということでしたが、城跡感はまったく感じられませんでした。ただ、整備された公園古墳としては自然な形で保存されており、公園古墳としては正統派なのではないでしょうか。何が正統派なのかは、分かりませんが。
という訳で、定の山古墳の紹介はこの辺で。次回はまた別の、古墳から城になって公園になった古墳を紹介します。
定の山古墳詳細
古墳名 | 定の山古墳 |
住所 | 大阪府堺市北区百舌鳥梅町1丁23 |
墳形 | 帆立貝形古墳 |
直径 | 69m |
高さ | 7m |
築造時期 | 5世紀後半 |
被葬者 | 不明 |
埋葬施設 | 粘土廓(?) |
参考資料 | 百舌鳥古墳群をあるく |
案内板
定の山古墳は、百舌鳥古墳群の東部にあたる百舌鳥川を見下ろす台地の辺縁部に築かれた、前方部を西に向けた帆立貝形の前方円墳です。これまでの調査で後円部の西側から埴輪列が見つかり、後円部が2段築かれていること、墳丘の周囲には濠が巡ることが分かっています。前方部の正確な形状や埋葬施設、副葬品の内容は不明です。
濠からは朝顔形埴輪を含む円筒埴輪や、家形埴輪などの形象埴輪、須恵器の壺や坏などの遺物が見つかっています。